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2025/02/24

魏志倭人伝が証する邪馬台国とは 中国史書を手掛かりに歴史の真相に迫る

倭国の文化を証する中国史書

邪馬台国の存在は史実であり、古代日本史の中核となる重要な位置を占めています。その古代国家に関する情報は、中国大陸における清の時代に編纂された「二十四史」に含まれる史書の多くに「倭伝」として記載されています。後漢書」には「後漢書倭伝」、「晋書」には「晋書倭人伝」、「宋書」には「宋書倭国伝」、「梁書」には「梁書倭伝」、そして「隋書」には「隋書倭国伝」など、数々の史書の中に倭国、そして邪馬台国の記述が含まれています。その内容は多岐に渡り、女王国なる邪馬台国の場所だけでなく、倭国の文化などについても簡潔に記載されています。その内容は、政治、経済、地勢や気候など多岐にわたり、特に文化面においては食生活に至るまで、詳細に観察したものです。

例えば日本の学校教育でも良く知られている「魏志倭人伝」は、「二十四史」のひとつである「三国志」の倭人伝の中に含まれています。「魏志倭人伝」の記述には倭国及び倭人について、当時の知者が収集し、編纂した情報が客観的に数多く記載されています。これらの記述から、当時の倭国では漁撈が大変盛んであり、蚕が着物のために飼われていたことがわかります。また弥生時代前期、紀元前10世紀頃から普及し始めたと推測される稲作とともに、列島内で発展した食文化の様相を垣間見ることができます。さらには刀、矛、鏃、鏡などの青銅器や鉄器が用いられ、勾玉のような飾り物なども普及していたことが確認できます。

人口についての記述も極めて貴重であり、特定した地域に居住する民の数は、戸数を用いて数えられました。「三国志」が中国大陸における三国時代の歴史を記した正史として認知されている背景からしても、その内容についての信憑性はかなり高く、日本の古代史を知る上で、極めて重要な資料と言えるでしょう。これらの中国史書を頼りに、古代日本史の扉を開くことになります。

史書を読み取る際の注意事項

中国史書の倭人伝には、列島の地勢についても客観的に論じられ、方角や距離が具体的に記載されています。長い年月をかけて培われた古代の優れた天文学や地理学をベースに、それらの見聞記録の一環として綴られた倭国の地勢に関する多くのデータは、倭国の実態を知る上で極めて重要です。中国の識者による史書の記述内容には具体的な数字が記されているだけに、それらのデータをできるだけ、そのまま理解することが重要です。そこに記されている方角や、里数を用いたおよその距離などのデータは、つまるところ倭国の地勢を理解する手掛かりとなります。

中国史書を読みながら、倭国の地勢を理解するには幾つかの注意が必要です。まず、それぞれの史書は、長い年代を経てデータが収集され、それらが時を隔てた後世において改めて編纂されていることから、時折、記述内容に年代のギャップが生じ、該当する年代や、地域を特定することが難しい場合があります。少なくとも数百年にわたる時代において見聞されたことが、あたかも「今」、見ているかのように書かれているため、歴史の流れの中に浮かんでくる倭国の姿を幅広い視野をもって注視することが大事です。

また、編纂者が何をもって倭国と位置付け、言及しているかにも注意を払う必要があります。史書における倭人の観察記録は、その話題から察するに大変幅広い地域を網羅していると考えられます。長年にわたり中国の識者は、中国大陸の東方に浮かぶ殆どの島々が倭国の範疇と認識していたようです。南は南西諸島から北は本州を含む島々の集合体が、倭国の対象として考えられていたと想定されます。史書の記録によると、それらの島々に100余国が存在していたということですから、このような大局観を基に、倭国の全体像を捉えながら史書の記述を理解する必要があります。

魏志倭人伝が証する邪馬台国

中国史書の一つである「魏志倭人伝」には、倭国の邪馬台国について、その場所に辿り着くまでの詳細が記されています。その邪馬台国への渡航ルートについては、史書の表記のまま以下の10項目にまとめることができます。また、渡航ルート以外にも、邪馬台国の立地条件や地勢に関するコメントが複数記載されています。それらは「邪馬台国の全体像」として、8項目に記しました。

邪馬台国への渡航経路

  1. (帯方)郡より倭に行くには郡を出発してまず海岸に沿って航行して狗邪韓国に到着する。七千余里である。
  2. 一つの海を渡り千余里にして対馬国に到着する。
  3. 次に南へ海を渡り千余里で一大国(壱岐)に到着する。
  4. また一つの海を渡り千余里行って末盧国に到着する。
  5. 陸上を東南へ五百里すすむと伊都国に到着する。
  6. 東南に百里すすめば奴国に到着する。
  7. 東に百里すすめば不弥国に到着する。
  8. 南へ水行20日すすむと投馬国に到着する。
  9. 南にすすみ邪馬壹国に到着する。
  10. ここは女王の都であり、水行10日、陸行1か月かかる。

邪馬台国の全体像

  1. 倭の人々は帯方の東南にあたる大海の中に住み、山や島によって国や村を作っている。
  2. 女王国の南には狗奴国。
  3. 帯方郡より女王国に至る間の距離は一万二千余里。
  4. 倭の地はちょうど会稽、東冶の東方の海上。
  5. 女王国の東へ海を千余里渡ると国がある。
  6. 南には朱儒国があり四千余里。
  7. 侏儒国から船で東南へ1年で裸国、黒歯国に至る。
  8. 倭人は遠く離れた海の島々にいて、或いは海で距てられ、或いは陸地続きになっていて、島々を経めぐると五千余里程。

「会稽、東冶の東方」という表現については、南西諸島から本州まで南北に広がる倭国の島々のほぼ中心を指して、倭国の全体像を語っていたのかもしれません。また、「島々を経めぐると五千余里」という表現は、島を一周するというよりもむしろ、瀬戸内海を東西の端まで行き来する航海路のイメージに該当すると考えられます。下関から淡路島まで瀬戸内海の島々を経由して東方へ向かうと、およそ370kmになります。短里の1里を70mから80mと想定するならば、距離的に合致します。また、瀬戸内海の水域は、大陸から倭国の国々へと向かう際の主要航海路であり、南北の陸地が海により隔てられているだけでなく、その中間には多くの島々が浮かび、陸地続きとなる岬も随所に際立つことから、正に表現内容と一致する海域と言えます。

倭国に関する魏志倭人伝の記述は、その全体の境界線を明確にはしていません。日本列島の場合、北方は樺太を越えて大陸に繋がり、東方や南方の先には太平洋が広がっていることから、倭国の対象となる島々とそのエリアは限られており、明文化するには及ばないでしょう。また、海人族が中心となって島々を往来しながら各地に友好関係を築いていった古代の島民社会においては、今日の国境というような明確な線引きは必要なかったとも考えられます。大切なことは、集落同士の絆であり、民族同士の連帯感だったはずです。

「魏志倭人伝」の記述内容から、南は南西諸島から北は本州まで、多くの島々を網羅する集合体から成り立つ倭国の姿が浮かび上がってきます。その中心となる国家として台頭したのが邪馬台国です。史書が証している邪馬台国のイメージは明確です。それは一言でまとめると「秘境の地」です。邪馬台国とは、朝鮮半島から海を渡り、対馬、壱岐を渡って九州に到達した後、再び海を渡り20日の船旅。さらに海や川を10日間旅し、そこから陸地を歩いて1か月もかかる場所にあったのです。邪馬台国が大陸から遠く離れた「秘境の地」にあるということに気が付くことが、「邪馬台国の道のり」を見出す鍵となりそうです。

コメント
  1. 寺田紀之 より:

    Wharton class of ’81 の寺田紀之と申します。素晴らしい研究成果と拝読しております。

    ウエツフミの古文書(古事記に酷似しており、古事記より詳しい)には、豊後のウガヤフキアエズ王朝の歴代の王が記載されていますが、卑弥呼に該当する王名が見当たりません。またAD150年頃、九州の大飢饉により、ウガヤフキアエズ王朝は豊後から奈良の吉野山に遷都したとのこと。これが事実であれば、邪馬台国は、九州でも近畿でもなく、別の場所、四国あたりに、ウガヤフキアエズ王朝と併存していたのではないかと思っております。四国と邪馬台国は無縁のように思えますが、讃岐の奥3号墳から、三角縁三神五獣鏡(魏鏡)が出土していま。四国周辺と魏が交流を持っていた形跡がありますので、邪馬台国四国説の信憑性は、かなり高いと思います。

  2. rick より:

    邪馬台国が四国に存在した、という根拠は主に3点挙げられます。まず、若杉山遺跡の発掘調査から、日本最古、かつ大規模な辰砂工場が徳島県の若杉山にあったことが確認されたことです。邪馬台国の存在は辰砂の掘削に絡んでいることから、地理的にも近いことが想定されます。

    また、中国史書の記述から察するに、邪馬台国の立地条件は秘境の地、かつ、陸地から徒歩で1か月もかかる山奥の場所、ということが想定されます。その条件に見合う場所は四国にしか見つかりません。奈良界隈はほぼ無防備の盆地であり、海辺からあまりに近すぎます。九州は中国に隣接する島であり、秘境とは考えづらいほど、距離感が短いです。

    3番目の理由は、邪馬台国が台頭する直前の時代、元伊勢御巡幸を通して神宝を携えながら倭姫命が伊勢の地までたどり着きましたが、その80余年にわたり御巡幸された元伊勢の地が、すべてレイライン上で四国の剣山に結び付いていることがあげられます。それは神宝と剣山が紐づけられていることを示唆しており、巧みな古代の知恵を用いて、御巡幸の最終目的地、すなわち神宝の秘蔵場所が四国剣山であることを暗黙にうちに証していると考えられます。よって、四国剣山周辺に神宝が持ち運ばれたと想定することにより、その山頂で神がかりになった卑弥呼がいつしか頭角を現し、国家勢力となるまで国が発展していくことになったと考えると、つじつまがあいます。

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