邪馬台国の情報を提供する中国史書
邪馬台国の存在は史実であり、古代日本史の中核となる重要な位置を占めています。邪馬台国に関する情報を記載している中国史書は少なくありません。日本の学校教育で良く知られている魏志倭人伝をはじめとし、後漢書倭伝、晋書倭人伝、宋書倭国伝、梁書倭伝や、隋書倭国伝など、数々の史書に邪馬台国の記述が見られます。
ところが、魏志倭人伝や後漢書倭伝などの史書の記述を頼りに邪馬台国を理解しようとしても、その比定地や地理感などの解釈はさまざまであり定説がありません。特に邪馬台国の場所については見解の相違が著しく、長年にわたり議論が続いています。これらの史書に記載されている、ごく限られた情報に関わる解釈の相違により、邪馬台国が日本列島のどこに存在していたかが今日まで議論され続けているのです。
昨今の「卑弥呼の墓」の遺跡発掘調査の結果などからは、これまで主流となってきた畿内説と北九州説の2大説の内、畿内説の方に、より分があるという方向性が見え始めているようです。しかし、たとえ卑弥呼の墓の場所が確認されたとしても、邪馬台国を探すための手掛かりにはなるものの、その場所を確定する根拠としてはいささか不十分であり、依然として多分に議論の余地を残すことになります。
果たしてこれらの議論に終止符を打つことができるのでしょうか。いずれにしても、中国史書の情報が邪馬台国の実態を理解する鍵となることから、その内容に目を通して、そこに記録されている内容の全体像を見極める必要があります。そのうえで、それらの情報を歴史の流れに照らし合わせて検証しながら、邪馬台国の比定地も含め、歴史の真相を解明する手掛かりを見つけていくことになります。
中国史書に記載されている邪馬台国の記述は、およそ以下のとおりまとめることができます。
後漢書倭伝
- 楽浪郡の境界は邪馬臺国(邪馬台国)から一万二千里も離れており、倭の西北と境界をなす狗邪韓国から七千余里離れている。
- 気候は穏やかで四季を通じて野菜が育つ。
- 牛、馬、虎、豹、羊、鵲(かささぎ)などはいない。
- 大倭王は邪馬臺国に居住している。
- 桓帝・霊帝(後漢末147-189年)以降、一人の女子、卑弥呼が王となる。
- 女王国から東へ海を渡ること千余里で拘奴国に至る。
- 女王国から南へ四千里で朱儒国に至る。
魏志倭人伝(三国志)-渡航経路
- (帯方)郡より倭に行くには、郡を出発してまず海岸に沿って航行して狗邪韓国に到着する。七千余里である。
- 一つの海を渡り、千余里にして対馬国に到着。
- 次に南へ海を渡り、千余里で一大国(壱岐)に到着する。
- また一つの海を渡り、千余里行って末盧国に到着。
- 陸上を東南へ五百里すすむと、伊都国に到着。
- 東南に百里すすめば奴国に到着する。
- 東に百里すすめば不弥国に到着する。
- 南へ水行20日すすむと投馬国に到着する。
- 南にすすみ邪馬壹国に到着する。
- ここは女王の都であり、水行10日、陸行1か月かかる。
魏志倭人伝(三国志)
- 対馬国は千余戸、一大国は三千戸、末盧国は四千戸、伊都国には千余戸。奴国は二万戸の人家、不弥国には千余戸。投馬国には五万戸、邪馬壹国には七万戸の人家がある。
- 伊都国には代々国王がいる。
- 女王国より北の国々はその戸数や道里をだいたい記載することができるが、そのほかの周囲の国々は遠く隔たっていて詳細に知ることができない。
- 女王国の南には狗奴国があり、男子が王となっている。
- 帯方郡より女王国に至る距離は一万二千余里である。
- 女王国は北の国々に対し一大卒を伊都国に置いて検察し、港で文書や賜物の検閲をする。
- 倭の地は温暖で冬でも夏でも生野菜を食べ、みな徒跣で生活している。
- 女王国の東、海を渡ること千余里のかなたに、また国がある。
- その南に侏儒国があり、人の身長は3、4尺にすぎない。
- 倭の地は、島々を経めぐって行くと五千里ほどになる。
隋書倭国伝
- 倭国は、百済・新羅の東南、海路・陸路三千里の所にある。
- 大海の中に、山の多い島に移住している。
- 倭国の境域は、東西は徒歩5か月、南北は徒歩3ヶ月で、おのおの海に至る。
- 東が高く西が低い地勢。
- 耶靡堆を王都とし、ここが魏志にいう邪馬臺である。
- 楽浪郡の境や帯方郡から一万二千里離れている。
- 会稽の東の方にあたり、儋耳(たんじ)に近い。
- 倭国の戸数は十万戸ほどである。
- 河川が多く、陸地は少ない。
- 阿蘇山がある。突然に噴火し、祈祷祭祀を行う。
- 新羅・百済は、倭を大国で珍しい物も多い国として敬仰し、つねに使者を往来させている。
- 百済に渡り(608年)、竹島に至る。南の方にタン羅国(済州島)を望みつつ航海し、はるか大海の中なる都斯麻国(対馬)を経由する。また東して一支国(壱岐)に至り、また竹斯国に至る。また東して秦王国に至る。秦王国の人は中国人と同じである。それからまた十余国を経て海外に到着する。竹斯国から東は、みな倭国に従属している。
後漢書倭伝、魏志倭人伝(三国志)、随所倭国伝という三つの著名な中国史書から、邪馬台国に関するコンテンツを抜粋しました。古代、中国大陸で活躍された識者の優れた洞察力と天文学のノウハウ、そして世界の地勢に関する知識を前提に考えるならば、これらの内容には根拠があることに違いなく、重要な情報源となりうるのです。しかも実際に、中国史書の内容に準じた場所が存在することがわかってきました。その検証プロセスを、「邪馬台国への道のり」で解説します。