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2026/07/27

若杉山遺跡と邪馬台国との関係 中国史書が証する辰砂が示唆する邪馬台国の場書

若杉山遺跡そばを流れる一級河川 那賀川

辰砂を探索した古代の民

辰砂が産出される邪馬台国

古代、日本最大の辰砂坑道が徳島県の若杉山遺跡で確認されたことにより、辰砂の存在との関連から、邪馬台国がその近郊にあったのではないかという説も語られるようになりました。というのも、魏志倭人伝などの中国史書に、邪馬台国は辰砂が産出される国と明記されているからです。

邪馬台国が歴史に台頭してきた時代の日本列島では、若杉山遺跡以外に辰砂が発掘された大規模な坑道は、現在のところ確認されていません。そのため、若杉山遺跡の近くに邪馬台国が存在したという可能性が、有力視されるようになったのです。では、いったい誰が辰砂を採掘していたのでしょうか。

もし、西アジアの高度な文化を携えてきた古代の海洋豪族が、辰砂鉱山の探索や掘削に深く関わっていたと考えるならば、一連の歴史の流れは理解しやすくなります。そして、邪馬台国が台頭する直前の時代に終結した元伊勢御巡幸の歴史を振り返ると、御巡幸の船旅を導いた海洋豪族と辰砂との関わりが見えてきます。その一族が複数の船団を率い、辰砂採掘の歴史を大きく動かした主人公であった可能性に注目してみました。

日本の国家情勢と元伊勢御巡幸

若杉山遺跡の年代に該当する弥生後期(1~3世紀)は、中国大陸においては秦の始皇帝没後、およそ2世紀後に後漢から三国時代へと移り変わり、各地で戦乱が続いていた時代です。その混乱を逃れた多くの人々が朝鮮半島から日本列島に渡来してきたと考えられます。三国時代は戦乱の幕開けであり、その三国のひとつが日本でもよく知られている魏です。

一方、日本でも国家情勢は不安定で、多くの渡来者が大陸から移住し続けるなか、政治は混迷を極め、天皇を中心とする国家統治は難しい局面を迎えていました。紀元1世紀前後、その状況を打破するために、倭姫命による元伊勢御巡幸が断行され、神宝を携えた80余年にわたる長旅が続いたのです。そして御巡幸の終盤には船による御巡幸が計画されました。

海洋豪族による辰砂探索の船旅

若杉山遺跡そばを流れる一級河川 那賀川
若杉山遺跡そばを流れる一級河川 那賀川
「倭姫命世記」の記述によれば、弥生時代後期には造船所が主に琵琶湖周辺や、その東方に位置する伊久良河宮(岐阜)にあったと考えられています。伊久良河宮から伊勢まで御一行は、船団に守られながら川を下り、海沿いを南下することになりました。その任務を担い、倭姫命御一行と神宝を護衛したのが、船木氏に代表される海洋豪族でした。そして、無事に御一行を伊勢へ送り届けた後、垂仁天皇26年に伊勢神宮が建立されました。

新聖地にて神が祀られた後、元伊勢御巡幸の立役者となった船木氏一族ら海洋豪族は、伊勢周辺に集落を築きました。その後、船団は紀伊半島沿岸を航海し紀伊水道へと向かい、御巡幸の密かな目的地であったと考えられる四国の山上を目指して、神宝を護衛しながら船旅を続けました。そして船木一族は、最終的に淡路島を経て播磨方面へ向かったと推測されます。

その航海の途中、船木一族は各地に集落を築きながら、辰砂鉱山の探索にも力を注いだと考えられます。その結果、今日の三重県多気町周辺や伊勢国の丹生、和歌山県の吉野川上流と位置する丹生都比売神社周辺の紀伊山地においても辰砂を含む鉱脈が開発されました。そして紀伊水道を渡った四国の那賀川上流にも辰砂鉱脈があることがわかり、徳島県の若杉山においては国内最大級の辰砂鉱山が開拓され、採掘が行われたのです。

こうして海洋豪族の船木氏や辰砂の発掘に携わった丹生氏らは、船舶建造のために不可欠な資源であった辰砂を安定して確保するため、複数の鉱山を開発し、その周辺に集落を築いたと考えられます。辰砂の採掘を海洋豪族が主導していたとすれば、それら鉱山の多くが、海上交通の便が良い紀伊半島や四国の大河川沿いに見出されたことも十分に理解できるのではないでしょうか。

元伊勢御巡幸に続く海洋豪族の辰砂探索
元伊勢御巡幸に続く海洋豪族の辰砂探索

魏志倭人伝が証する邪馬台国と辰砂の存在

中国が注目した辰砂の存在

それから2世紀も経たないうちに、卑弥呼を女王とする邪馬台国が突如として歴史の表舞台に登場します。邪馬台国について記した中国の歴史書「魏志倭人伝」には、辰砂についての記述が複数含まれていることからしても、当時の中国が倭国における辰砂の存在に強い関心を寄せていたことがうかがえます。

辰砂を原料とする真っ赤な「朱」は、古代の中国でも不老不死、高貴さの象徴としてだけでなく、災厄を防ぐ神聖な色として尊ばれました。「魏志倭人伝」の「以朱丹塗其身體」という記述からは、「倭国では体に朱丹を塗っている」という史実を知ることができます。さらに興味深い記述は、「出真珠・青玉。其山有丹」という記述です。それは、「真珠や青玉を産出する。その山には丹がある」という意味です。「真珠」とは真朱、すなわち水銀朱、「丹」は辰砂を指します。これらの記述から、邪馬台国が統治する領域内には辰砂を有する鉱山が存在し、そこで大量の辰砂が掘削されていたことが想定されます。

辰砂採掘地が示唆する邪馬台国

水銀鉱床群分布図
水銀鉱床群分布図
邪馬台国の時代に辰砂が採掘された地域は、その比定地と密接な関係にあった可能性が高いと考えられます。そのため、2~3世紀における辰砂の生産地を特定することにより、邪馬台国の所在地を考える上で重要な手掛かりとなるでしょう。

当時、日本列島における水銀鉱床群は地域が限られており、大きな規模のものは、紀伊半島の吉野川沿いを中心とする大和水銀鉱床群、四国の若杉山遺跡周辺と阿波水銀鉱床群、そして九州の一部にある水銀鉱床群などしか知られていません。中でも若杉山遺跡の坑道の規模は他地域とは比較できないほど大きいことがわかってきたことから、「魏志倭人伝」の「其山」、つまり辰砂が掘削される鉱山とは、若杉山を指している可能性が高いのです。

邪馬台国と若杉山遺跡の関連性

邪馬台国と若杉山遺跡は辰砂という特殊な資源に共通点があります。また、弥生時代後期の1~3世紀という時代にも一致します。こうしたことから、若杉山遺跡からそれほど遠くない地域に邪馬台国が存在ていした可能性が高いと考えられます。

邪馬台国は海岸から陸地を1か月ほどかけて歩かなければ到達できないほどの奥地にあると「魏志倭人伝」には記されています。この記述を踏まえると、那賀川上流の険しい四国山地のどこかに邪馬台国があったと推定するのが自然です。若杉山遺跡の検証から、邪馬台国の比定地が絞りこめるだけでなく、歴史の流れがより明確になってくるようです。

若杉山遺跡の上方には巨石が連なる
若杉山遺跡の上方には巨石が連なる
3世紀、女王卑弥呼が統治した時代の辰砂採掘遺跡としては、現時点では若杉山遺跡が有力な候補のひとつと考えられます。今後も坑道内の調査が進められ、辰砂の採掘方法や出土遺物の詳細な分析が進展することで、若杉山遺跡の年代やその歴史的背景が、より明らかになることが期待されます。

参考文献

  • 辰砂生産遺跡の調査-徳島県阿南市若杉山遺跡 徳島県立博物館1997年
  • 若杉山遺跡発掘調査概報 徳島県教育委員会- 徳島県 1987年
  • 広報 あなん 徳島県阿南市役所 2018年11月

参考サイト

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