1. ホーム
  2. 平安京を支えた空海の歩み
  3. 平安京遷都と和気清麻呂との出会い
2026/09/21

空海が重要視した再度山の謎 和気清麻呂から伝授されたレイラインの真相

再度山に思いを寄せた空海

空海は青年時代から和気清麻呂と接触を重ね、密接な繋がりを持っていました。それだけでなく、20歳で悟りを得て奈良に戻った後も、和気清麻呂とともに重要なプロジェクトに携わり、さまざまな情報を共有しながら天皇に仕えていたと考えられます。その根拠の一つとして挙げられるのが、現在の神戸中心部の北方に位置する再度山(ふたたびさん)の存在です。

遣唐使として中国に渡った803年頃、和気清麻呂が観音霊場を創建した多々部山(たたべやま)には、現在の大龍寺が建立されています。寺伝によれば、空海は、遣唐使として出発する直前のみならず、帰国後にも再びこの山を訪れています。空海が二度訪れたことから、多々部山はいつしか「再度山」と呼ばれるようになりました。再度山は空海にとっても重要な拠点であり、そこに何日も滞在したと伝えられています。空海がこれほどまでに魅了されたのには、何か特別な理由があったのでしょうか。

空海が亀の像を彫った謎

空海が再度山を重要視したことは明らかです。その証拠に、空海は再度山の頂上近くにある岩場を見定め、そこで岩を削って垂直かつ平らな岩壁を作っただけでなく、そのすぐそばにある巨石の上には、自らの手で亀の像を彫り上げたのです。甲羅の形や亀の頭まで含めると長さ40㎝以上にもなるこの像は、現在でもその原型を留めています。

特別な思い入れがなければ、このような作品を手掛けることはなかったでしょう。しかも、その傑作を完成させたのは、遣唐使として中国に渡る前後であり、時間的にも余裕があまりなかった頃と推測されます。それでもあえて空海は再度山に赴き、時間をかけて亀の像を完成させました。そこまで空海が心を動かされた理由は、いったい何だったのでしょうか。なぜ、重要な時間を割いてまで岩を削り、亀を彫る必要があったのでしょうか。

確かなことは、再度山を拠点として霊場を創建した和気清麻呂から、周辺に関する貴重な知識を空海が学んでいた可能性が高いという点です。清麻呂がこの地を重視した理由を知り、再度山の位置や意味が極めて重要であると認識した空海は、自らの思いを形として残すことを決意し、二度にわたって再度山を訪れ、亀の像を彫ったのです。

多忙を極めた空海だけに、単に再度山が地理的に重要な意味を持つ場所であるというだけで、その山に籠って岩を削り、時間をかけながら、そこに自らの手で亀の像を作るということは考えられません。空海が彫った亀には、何らかの大切なメッセージが込められており、それを後世に伝えることを意図したからこそ、この貴重な作品が残されたと見るべきでしょう。その亀の姿に込められた空海の思いとは、いかなるものだったのでしょうか。

古代聖地を見出すレイラインの手法

古代の識者たちは、霊場や聖地を見定める際、他の著名な神社や霊場、霊峰との位置関係を重視し、それらが一直線上に並ぶ配置に特別な意味を見出したと考えられています。こうした、神社や霊峰などの聖地が一直線上に並ぶ状態は、「レイライン」と呼ばれることがあります。また、新たに神社を建立する際には、複数のレイラインや、同緯度・同経度の線が交差する地点が選ばれることもあったと考えられます。

和気清麻呂も、「レイライン」のような考え方に基づいて、日本列島内に聖地を見出していたのではないでしょうか。再度山が霊場と定められ、重要視された背景には「レイライン」の存在があり、その場所の特異性は、今日でも地図上で確認することができます。

当時、この「レイライン」の重要性については、空海もまた認識していたと考えられます。実際、空海が修行の場とした大峯山は、四国の剣山と伊勢神宮を結ぶ一直線上に位置しており、山上からは東に伊勢神宮、西に高野山を望める場所です。なお、大峯山は高野山と同様、単独の山を指す名称ではなく、吉野から熊野へと連なる山岳地帯全体を指します。その中心には山上ヶ岳が聳え、頂上には修験道の根本道場である大峯山寺が建立されています。こうした点を踏まえると、空海は自らの修行の場についても、伊勢神宮や剣山との位置関係を重視し、それらと結び付く場所を選定していたのではないでしょうか。

レイラインから浮かび上がる再度山

レイラインの検証によって極めて重要な地点が浮かび上がり、その結果、聖地として位置づけられたと考えられる事例の一つが、再度山です。「日本書紀」や「古事記」にも記された由緒ある神社として知られる伊勢神宮石上神宮を結ぶ線上に、再度山は位置します。これら二社は、神宝の歴史とも深く関わる重要な存在です。

さらに、この線を西へ延長すると、「石の宝殿」で知られる古代史跡、生石神社(おうしこじんじゃ)があります。すなわち、伊勢神宮、石上神宮、再度山、生石神社は、すべて一直線上に連なっているのです。このことから再度山は、これら複数の聖地から地の力を受け継ぐ場所として認識されていた可能性があります。

それだけではありません。再度山から南西方向に四国の剣山を結ぶ線を延長すると、その線上には、淡路島の名所であり古代の聖地とされる伊弉諾神宮石上神社が位置しています。二つの神社と再度山、そして剣山という四つの地点が一直線上に並ぶという事実は、単なる偶然とは考えにくい現象です。

特筆すべきは、石上神社の緯度が奈良の三輪山と一致する点です。淡路島の山奥に石上神社が建立された背景には、船木一族の存在があり、その地まで巨石を運び、御神体として祀ったことに由来すると考えられています。そして、この地域一帯はやがて「舟木」と呼ばれるようになりました。すなわち、伊勢神宮と石上神宮を結ぶ線と、石上神社の磐座から伊弉諾神宮、さらに剣山へと至る線は再度山で交差し、見事な二本のレイラインを形成しているのです。このことから、古代において再度山は極めて重要な地として認識されていた可能性があります。

伊勢神宮と結びつく平安京、高野山、再度山と剣山

再度山の位置が重要である理由

和気清麻呂は、「レイライン」の考察を通じて、伊勢神宮と石上神宮を結ぶ線と、剣山、伊弉諾神宮、石上神社の磐座を結ぶ線とが交差する地点が、再度山の山麓に位置することを見出したと考えられます。言い方を変えれば、その場所は、剣山、伊弉諾神宮、石上神社の巨石、そして伊勢神宮や石上神宮など、複数の古代聖地を結び付ける極めて重要な位置にあったのです。それゆえ、その岩場は聖なる霊場と定められ、神を祀る磐座として特別な意味を持つようになったと推測されます。

これらの背景を学んだ空海にとって、大龍寺の奥宮裏に祀られている磐座は、思い入れの深い場所になったことでしょう。なぜなら、空海の故郷である讃岐の地から崇め、仰ぎ見ていた剣山をはじめ、国生みの原点となる伊弉諾神宮、神宝が収蔵されている伊勢神宮と石上神宮など、自身が深く敬愛した数々の聖地も、この再度山の磐座と地理的に結び付いていることを見出したと考えられるからです。

再度山は、複数の聖地が持つ「地の力」を結集する、極めて重要な地点だったのです。だからこそ空海は、そこに亀の像を彫り、後世に何らかのメッセージを残そうとしたのではないでしょうか。そして、その亀に込められた意味を解き明かすことにより、歴史の奥に潜む謎が紐解かれることになります。

画像ギャラリー:再度山 / 生石神社 / 舟木石上神社

コメント
  1. 愛生(manai) より:

    秦氏は何族?

  2. 中島 より:

    秦氏はおそらくユダ族と考えられます。ユダ族はヘブライ語で「イェフダ」、יהודה、といいます。「ヤフダ」とも聞こえ、その発音は「ヤハタ」とほぼ同一であることから、秦氏が建立した八幡神社の語源と推測されます。また、 ユダの民は「イェフディ」、 יהודי、yehudi、とも言います。それ故、「ヤハタ」とは、イスラエルの王系、ユダ族を指していると考えられます。秦氏が秦の始皇帝との姻戚があるならば、なおさらのことです。これまで学者らが秦氏はユダ族、と声をあげて言えなかった理由は、日本に渡来したのは失われた10部族であり、ユダ族、ベニヤ民族は含まれてないという説が、広く流布されてきたからに他なりません。ユダヤ系学者にとって、日本に渡来したのはその10部族のみ、という強い信念は古くからあり、これまで議論の余地もなかったのです。よってそれらの学者は「ヤハタ」の語源を、ヘブライ語で「ヤー・エハッド」、「唯一の神」と解釈し、その説を広めてきたのです。自分たちがユダ族の末裔であり、日本にはその末裔はいない、という気持ちは察することはできます。しかしながら「ヤハタ」はユダ族を意味する「ヤフダ」が普通に訛ったものと考えるのが自然です。つまり、南ユダ王国の民も日本に渡来してきており、秦氏がユダ族であっても、また、皇族がユダ族であっても何ら不思議はないのです。よって、神社にはユダ族の象徴である獅子が置かれているのです。

コメントする