和気清麻呂から聖地の配置を学ぶ空海
奈良時代後期の794年、長岡京を呪いから短期間で解放するための施策として、「平安京」への遷都が行われました。和気清麻呂の貢献により、四神相応の諸条件を満たす都の地が見出され、そこに新しい都が造営されたのです。
当時、日本列島には単なる地理条件を超えた「聖地の配置」を読み解く知恵が存在していた可能性があります。その思想を体現した人物こそ、真言密教の開祖である空海です。若き日の空海は、国家の中枢に関わる知識や思想に触れる中で、地理と宗教が密接に結びついていることを学んだと考えられます。その背景には遷都を主導した和気清麻呂の存在があり、高度な見識に基づく地勢と聖地の配置を読み解く考察力は、空海にも大きな影響を与えたようです。
怨霊の呪縛からの解放と神宝の取り扱いについて深い関心をもっていた空海は、和気清麻呂から学びながら、国家の安泰を願ったと考えられます。そして都の成立に深く関わる地勢観に触れる中で、単なる土地の優劣ではなく、「意味を持つ場所」の存在に気づいていったと考えられます。その後、空海は天皇のさらなる厚い信任を受け、やがて側近として活躍します。この2人は、それぞれの専門分野において国家と天皇家の安泰を心から願いつつ、全身全霊をもって桓武天皇にお仕えすることになります。
空海が注目した3つの聖地
空海の思考を読み解く鍵となるのが、日本列島に点在する3つの重要な聖地です。すなわち、伊勢神宮、石上神宮、そして四国の霊峰である剣山です。これらはいずれも神宝や古代祭祀と深く結び付いた場所であり、日本の精神的中心を構成する拠点とみなすことができます。
空海は、神宝に関する記述が史書にも多く見られる伊勢神宮と石上神宮はもちろん、空海の故郷からも遠くに眺めることができる四国の剣山も、重要視していたのではないでしょうか。何故なら、剣山の周辺には、古代ユダヤの集落が存在した、あるいはイスラエルの秘宝が埋蔵されているのではないかという古くからの伝承があり、元伊勢御巡幸の歴史にも繋がる地理的な重要性が認識されていたと考えられるからです。
空海はこれらを直線で結ぶ発想を持っていた可能性があります。いわゆるレイライン的な視点に立つことで、日本列島には偶然とは思えない配置の規則性が浮かび上がるのです。
空海が重要視した再度山とは
遷都の背景には、清麻呂の補佐役としての空海の存在も見逃せません。空海自身もまた、レイライン的な発想を有していたと考えられる根拠が、再度山と高野山の存在です。再度山は、伊勢神宮と石上神宮を結ぶ線上に位置します。偶然とは考えにくいこの配置は、空海が聖地の繋がりを意識していた可能性が示唆されます。
再度山は、その名前のとおり、空海が遣唐使として中国に入唐する前と、帰国直後、2度訪れた場所です。多忙を極めた空海が2度、訪れるからには、極めて重要な場所であったと考えられます。つまり、和気清麻呂が開山した再度山を、空海も重要視したことに間違いないでしょう。さらに再度山の山上近くには、空海が巨石を削って造ったと伝えられる亀の彫像が残されており、今日でもその傑作を見ることができるのです。
亀は古来より「方位」「大地」「長久」を象徴する存在です。また、「かめあ」という言葉はヘブライ語で「お守り」を意味します。よって、亀を刻むということは、空海が再度山から何かしら大事なメッセージを発信していたと考えられます。その空海の思いを紐解くことにより、彫られた亀の意義とその重要性が理解できるはずです。
山奥に見出された修行の地、高野山
さらに注目すべきは、空海が最終的に選んだ修行の地、高野山です。一見すると極めて不便な山奥にある高野山ですが、レイライン的視点から考えると、驚くべき構造が見えてきます。
伊勢神宮と平安京の距離は約108kmです。この数字は、仏教において煩悩を示す象徴的な数です。空海はこの距離関係を基準に、新たな聖地を配置した可能性があります。すなわち、伊勢神宮と剣山を結ぶ線上で、かつ伊勢から平安京と同距離の108㎞となる地点を探し出した可能性があります。そこに自らの拠点となる大切なスポットを見出したのです。
空海の国家に対する貢献と宗教的な影響力を顧みるならば、空海の生涯を全うするにふさわしい土地は、全国各地にいくらでもあったはずです。ところが、空海は何の変哲もない山奥で、しかも急斜面に囲まれ、人が足を踏み入れることがないような場所を選び、高野山の開創に着手したのです。その場所が愛する剣山と伊勢神宮、そして平安京と結び付いていることを確信したからこそ、そこを最後の拠点としたのではないでしょうか。
レイラインの考察を用いた聖地の選別
空海にとって高野山とは、単なる修行の場ではなく、日本列島に張り巡らされた聖地ネットワークの中核だったのではないでしょうか。それは高野山が伊勢神宮を基点として、京都御所と剣山、双方の「地の力」に結び付く聖地となることを意味していたと考えられます。そして聖地同志は線で結ばれ、距離でも一致し、対称性においても完成されるように仕組まれるという、極めて高度なレイラインの認識に基づいていた可能性があります。
空海は和気清麻呂と同様に、聖地を結び付けるレイラインの重要性を深く理解していたと考えられます。それらレイライン考察による国土の理解が十分にあったからこそ、伊勢神宮と石上神宮を結ぶ線を基準に、平安京と伊勢神宮を結ぶ線とはちょうど対称となる伊勢神宮と剣山を結ぶ線上で、伊勢神宮から平安京までの距離と完璧なまでに一致した位置に、自らの人生を全うするための生涯の拠点である高野山を造りあげたと考えられます。空海の思いはいつの日も、国家を愛し、平安京にお住まいになられる天皇を思い、神宝が祀られる伊勢神宮と、その歴史の大元となる剣山に惹かれていたのです。
