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2025/01/18

縄文人のルーツとは ! 人骨の解析とDNA検証から見えてくる古代人の姿

東南アジアを経由して渡来した現生人類

日本の古代史を散策していると、いつか必ず通るのが「日本人の起源」に関わる奥の細道です。昨今の学説によれば、日本人の起源を辿ると60万年以上前の新生代更新世まで遡り、100万年前のジャワ原人や、80万年前の北京原人との結び付きさえ見えてくるようです。その後、20~30万年前にアフリカ大陸の北方に誕生したホモ・サピエンスが現生人類へと進化し、6~7万年ほど前にはユーラシア大陸各地に移住し始めたと想定されています。そして3~4万年前頃には、中央アジアや東中国、南中国に現れたアジア最古のホモ・サピエンスが日本列島に到来し、縄文人の基となったという仮説に繋がりました。

その後、2万年ほど前の旧石器時代の人骨も沖縄で見つかり、縄文人のDNAは東南アジアや南方諸島、中国南方で発掘されたものと類似しているのではないかと指摘されるようになりました。つまり、日本固有の民族と考えられがちだった縄文人の正体とは、実は、東南アジアを経由して渡来してきた現生人類であった可能性が見えてきたのです

長い年月をかけてアジア大陸においては古代人が東方へと移動し続け、やがてヒマラヤ山岳民が、そして中国や朝鮮半島からも古代人が日本列島を訪れ始め、日本固有の文化を生み出す基になったと想定されます。こうした歴史の流れの中で、縄文人のルーツとなる現生人類だけでなく、その後は異なるルーツを持つ古代人が大陸より到来し、列島内に居住していた縄文人らの集団と共存しながら日本人の祖先が育まれてきたとことが、おぼろげながら浮かび上がってきました。

人骨の分析とDNA解析による成果

人骨からの形態研究においても、昨今の学説に変化が見られます。これまでは、渡来人の人骨の形質を色濃く受け継いでいることを認めるものの、日本全体を見た場合には、縄文人の形質を一斉に変化させるほど、多数の移住者が渡来したとは考えられない、と結論づけられていました。ところが最近の研究では発掘人骨の頭蓋骨の測定から、北アジア系の人々が弥生時代以降に数多く渡来したに違いないと結論づける方向に変化してきたのです。そして弥生時代初期から奈良時代まで100万人とも言える膨大な数の渡来者が訪れた結果、北アジアからの渡来系が8割、それに対して原日本人とも呼ばれる縄文系が2割、もしくはそれ以下の比率となり、今の日本人のルーツになったという研究さえ発表されています。

人類学者による出土した人骨の分析や、昨今のDNA解析は、弥生時代後期におけるアジア大陸からの渡来人説を後押ししています。例えば、国立総合研究大学院大学の宝来教授によるミトコンドリアDNA解析によると、本州では日本人固有のDNA所有者が5%にも満たず、むしろ中国と韓国タイプのDNAが主流であり、およそ5割を占めていると言います。そしてアイヌや沖縄に多いDNAタイプは全体の4分の1にも満たないことから、日本人とは「中国や韓国の人々の持つ特徴が非常に多く含まれ」、「多様な大陸系の集団から成り立つ」と推定したのです。

また、縄文人にはアイヌや沖縄の人々の祖先だけでなく、日本列島中部に住んでいた別の縄文人集団の存在も確認されたことから、縄文人のルーツが当初の想定よりも多岐にわたる可能性が高いことも指摘されてきました。今後、遺伝子の分析や、ウイルス感染に関する疫学の研究、考古学的リサーチなど、さまざまな裏付け調査を基に、日本人の起源がより明確になっていくと考えられます。

港川人は縄文人の祖先ではない?

港川フィッシャー遺跡
港川フィッシャー遺跡
昨今のDNA解析による縄文人の研究成果は目覚ましいものがあります。その結果、一昔前に提唱された「日本人の起源」に関する学説が覆されることもあり、幾度となく通説を見直す動きがこれまで見られました。その一例が、旧石器時代に存在した港川人です。

港川人の人骨は1967年から1970年にかけて、沖縄県で発掘されました。その人骨の年代は旧石器時代、2万年から2万2千年前に遡ることがわかりました。そして全身骨格も発見されて調査を続けた結果、当初、港川人は縄文人の祖先ではないかという説が浮かび上がってきたのです。

港川人女性 頭骨(複製)
港川人女性 頭骨(複製)
それから40年ほどを経た2009年、国立科学博物館を主体とした研究チームが中心となり、遺伝子工学や人骨の発掘調査を参考に調査した結果、港川人は東南アジアのルーツというよりは、さらに南のオーストラリア先住民やニューギニアの集団に近いことが発表されました。それまでは、沖縄で発見された港川人が縄文人の祖先ではないかという説が支持を集めていましたが、骨格や顔立ちなども含めて再検証をしていくうちに、港川人とは東南アジアやオーストラリアに由来する集団ではないかという仮説が生まれました。

その後、2021年には最新のミトコンドリアDNA解析技術が駆使され、港川人は縄文人に見られる遺伝子は共有するものの、特徴が異なっていることが、DNAの全塩基配列の解読からわかりました。その結果、港川人は縄文人とは異なるという結論に至りました。そして港川人は縄文人の先祖ではなく、むしろ縄文人や弥生人らと共通する祖先から枝分かれした集団と決定づけられたのです。

縄文人のルーツとは

この研究チームによって発表された、最終的な日本人形成のシナリオの方向性はシンプルで明確です。ホモ・サピエンスに進化した人類の一部が東南アジアに到着し、北上して日本列島に拡散し、縄文人の祖先になる者も存在したが、その民の流れとは別に、アジア大陸の北方から移住した民も含まれていたのではないかということです。

そして大陸では、寒冷地に適応した集団が東進南下して3000年ほど前までに中国や朝鮮に住み始め、最終的には縄文時代の終わりから弥生時代にかけて西日本に渡り、縄文人と融合しながら、弥生時代以降の本土における日本人の祖先になったという仮説に至ったのです。

国立科学博物館が発表した日本人の起源に関する新しい仮説は、実際には学者の見解がまとまらない論点も多く、結果として通説を否定するまでには至らず、およその妥協点としての発表であり、いかに「日本人の起源」を語ることが難しいかを物語っています。例えば、後述する「歴史人口学」のデータを基に日本人の起源を検証するだけでも、縄文時代における人口分布が著しく東日本に偏り、九州、四国にはほとんど人が居住していなかったことからして、南方から北上した人数は限られていると推定できます。それ故、むしろ暖かく住みやすい土地を探し求めた北方から渡来してきた民が主体となって、東日本の平野部から中部にかけて居住範囲を広げていったと考える方が、人口分布に関するデータとの辻褄が合いそうです。

国立科学博物館による仮説の課題

この度の研究チームによる仮説には、上記以外にも多くの課題が残されています。まず、年代別の人口の推移を十分に考慮したうえで、弥生初期から特に後期にかけて、人口が激増した理由について説明がないことには留意する必要があります。

次に、シベリアで寒冷地に適応した集団が東進南下したと想定しているのですが、なぜ南下するだけではなく、東進しなければならなかったのか、その背景が解明されていません。アジア大陸の日本海沿岸は山岳地帯が多く、たとえ古代にて陸続きであったとしても、東進するよりは南下する方がずっと理に叶っているのです。また、シベリアからの移民が3000年前までに中国や朝鮮などに分布したとするならば、なぜ古代文明の発祥地でもあるアジア大陸を後にして、わざわざ日本に渡らなければならなかったのか、その動機も明確ではありません。さらに、南方から北上してきた人々と、シベリアから南下した人々が原日本人の起源であり、弥生人の大半が中国から訪れたとするならば、なぜ日本語は、それらの人々とはおよそ関係のない、西アジアから北アジア大陸にかけて普及した、モンゴル語や朝鮮語と同じアルタイ諸語の仲間に分類される言語であるのか、その説明に欠けることなどが挙げられます。

いずれにせよ、このたびの研究成果の発表により、少なくとも縄文人とはいくつものルーツを経たさまざまな集団が関わって誕生した人種であることが明確になりました。それに加え、上記の疑問点を踏まえてさらに個別に検証を重ねることにより、古代日本史の原点とも言える「日本人の起源」の謎を紐解くキーポイントが見えてくるのではないでしょうか。中でも、弥生時代に列島の人口が急増したという実態を検証することは重要です。その疑問点を解明する鍵が、アジア大陸からの移民の流れにあります。そしてイスラエル人を中心とする大勢の移民の可能性に目を向けることにより、歴史の謎が紐解けてきます。

コメント
  1. 河村 開 より:

    確かに、感覚的には日本人のルーツと思われる比率は40~60%位と感じています。
    少なく見積もっても40%は妥当な数字と思います。古代史を見る目が、二派に分かれていて、東アジア的文脈の解釈は古代イスラエルの様態はスル-されており、残念な思いでいます。
    わたしは、統合的な日本人起源説が必要と感じています。秦氏など、朝鮮半島を経由して入ってきており、秦の始皇帝の末裔だという論もあります。
    研究論文、楽しみにして読ませていただきます。 河村

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