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2023/06/25

空海の知られざる7年間 空海をとりまく政治と宗教環境を振り返る

怨霊対策から姿を消す空海

空海
空海
794年に平安京遷都が実現しました。しかしながら、あらゆる怨霊対策がとられたにも関わらず、問題は解決することはなく、依然として桓武天皇を悩ませ続けていました。そして既に悟りを開いていた空海は、遷都が実現した直後より、南都六宗の本拠地奈良で2年間、学びのときを持ちながら、国家の安泰を願い、怨霊対策を熟慮したのではないでしょうか。都の行く末についても深い関心を抱いていただけに、朝廷の周辺に不幸と災難が連続して起きていることは、由々しき事態だったのです。

矢先の797年、当時23歳の空海は、御仏より「久米に行くべし」との啓示を受けます。そのとおりに東塔を訪ねてみると、そこで思いもよらずインド密教をルーツに持つ「大日経」の経典七巻を発見します。その経典には、仏と我が一体となる即身成仏に至る悟りの教理が記されていました。大勢の庶民を救い導き、怨霊の祟りから天皇をはじめ多くの人々を解放することを天命とした空海にとって、まさに「生命の宗教」の基となるべき経典を手にしたのです。その密教の経典に触れ、「聾瞽指帰」を書き下ろした直後、空海は何故か歴史から忽然と姿を消してしまいます。そして804年、遣唐使として中国に渡るまでの7年間、消息がわからなくなりました。

その間、空海は何をしていたのでしょうか。その空白の期間については空海の伝記にも一切記載がないため、多くの大師伝でも知られざる7年間として省略されています。また、たとえ説明があったにしても、大日経の経典を入手した後、その習得のために再び山奥にこもったとか、もしくは日本国内を旅しながら、遣唐使として入唐する準備をするために学問や語学に専念していたのではないかと推測されているにすぎません。果たして、空海はどこで何をしていたのでしょうか。

唐に渡るための資金作りか?

一説によると、空海の身分は低かったことから、唐に渡るための自己資金を蓄える必要があったと言われています。それ故、多くの苦労を重ねて各地を旅しながらお布施を募り、また、帰国した僧侶からも話を聞いて学んだであろうと考えられています。つまり、一介の新米僧侶として、入唐するための経済的な準備に励んでいたという説なのですが、果たしてそうでしょうか?

西夏文字による華厳経
西夏文字による華厳経
疑問点は、まず、貧しいと言われた空海が、実は多額の金銭を携えて入唐していることです。空海は、当初予定されていた20年に渡る滞在期間に必要な資金を十分に携えていただけでなく、自らが欲する書籍は何でも手に入れることができたほど、ゆとりがあったようです。実際、空海は経典四百六十巻や両界曼荼羅だけでなく、数々の仏画まで買い求め、そのコレクションの質の高さが最澄の耳に入り、帰国後、最澄の申し入れに応じて「華厳経」などを貸し出しています。無論、恵果和尚からも多くの書籍や秘宝を譲り受けています。留学が短期間に終了する目安が付いたことから余剰資金が生まれたという見方もできますが、いずれにしても貧しい留学生の行動とは思えません。

20歳にして室戸岬で求聞持法を成就し、悟りを開いた後、山岳宗教の行者となって、平安京の行く末にも深い関心を抱いていたはずの空海だけに、平安京遷都に関わる怨霊問題が公然と流布されている国家の一大事の時と知りながら、お布施集めのために国内を行脚するという、自らの利得のための行動をとるとは考えられません。しかも空海ほどの人物ですから、国内を旅したならば、必ずその地域に何らかの軌跡が残されているはずです。しかし7年間にわたり、空海に関する情報がまったく存在しないのです。

また、消息を絶つ直前の797年に空海があらわした「三教指帰」には、空海が大学を離れて山や難所で修行を積んだことが書かれていることから、さらなる修行を長い年月をかけて積むとも考え辛く、大日経を学ぶにしても、空海の才能からして7年という期間は余りに長すぎます。

空海は朝廷に召されたか?

「桓武天皇像」 延暦寺 蔵
「桓武天皇像」 延暦寺 蔵
国家を守護し、天皇に寄り添い、怨霊対策の結果を出すことを願っていた空海だけに、空白の7年の間、何かしら天皇とは個人的なパイプで繋がっていたと推測されます。母方の叔父にあたる阿刀大足は桓武天皇の皇子の家庭教師であったことから、空海自身も15歳の時から論語や史伝などを学ぶ機会に恵まれ、皇室との接点を持つことができました。また、空海は平安京の遷都における立役者であった和気清麻呂とも面識があり、日本の地理と聖地の見極め方、神宝の所在地などについてさまざまな知識を享受していたと想定されることから、より一層、朝廷との関わりは深まったと考えられます。

また、遣唐使として唐に向かった804年、空海は通訳者を必要としないほど、中国語を流暢に話せたことから、渡来人とも積極的な関わりを入唐前から持っていたと推測され、その人脈は幅広いものであったに違いありません。空海が遣唐使となった背景には、明らかに朝廷、および秦氏の介入と手厚い援助があっただけでなく、そこに至るまでの間、長年に渡り、空海は密かに天皇に仕えていた可能性があります。

その結果、空海の持つ豊かな人脈を背景に、何よりも急務であった怨霊対策について、空海は自分にしかできない自由な発想に基づくミッションを手掛けることを目論み、そのために天皇より一命を託された可能性が見えてきます。そして怨霊対策のために祈りを捧げ、かつ、国家を守護する神宝の処遇についても責任もって対応できる実力者であったと認められたが故に、桓武天皇の篤い信任を受けるようになったのです。

神宝の調査を託された空海と阿刀氏の関係

ちょうどその当時、怨霊対策で躍起になっていた朝廷において、誰も対処できずに放置されている難しい問題がありました。それが、怨霊対策の切り札とも言える「神宝の移設」です。天皇と都を守護し、国家の安泰を実現するためには、新都に神宝を移設することが不可欠でしたが、当時、朝廷にはそれを確信もって実行できる者が不在でした。太古の時代から神宝の取り扱いや儀式は大変難しく、祭司でしか関わることができなかっただけでなく、誰もが祟りを怖れるあまり、朝廷内でさえ神宝を触ることはおろか、見たりすることさえも避けられたのです。

また、本物の神宝の収蔵場所がいつの間にかわからなくなっていたことが、そもそもの問題だったのです。古代から神宝のレプリカは多数存在し、盗難を防ぐ目的のためにも重宝されていました。本物がどこに収蔵されているのか、わからなくするのがそもそもの目的でしたが、いつしか歴史の中に埋もれてしまい、事の真相がわからなくなってしまったのです。それでも平安京において神宝が宝蔵されることが強く望まれ、例え神宝のレプリカであったとしても、怨霊対策として不可欠と考えられました。それ故、神宝の収蔵場所に関する真相を確かめることが急務となったのです。

「契約の箱」と宝蔵された「三種の神器」
「契約の箱」と宝蔵された「三種の神器」
空海の消息が途絶えたのが平安京の遷都直後ということもあり、朝廷が怨霊対策に取り組んでいる真最中というタイミングから察しても、空白の7年間は神宝絡んでいたことでしょう。阿刀氏の家系から輩出された有能な宗教家であっただけに、空海にとって神宝が収蔵されている場所を確認し、それらを正しく祀ることは極めて重要だったに違いありません。ましてや、空海の故郷、四国においては、剣山の周辺にイスラエルの集落が存在し、そこにはソロモンの神宝が秘蔵されているという言い伝えが古くから残されていただけに、空海も深い関心を持って取り組んだことでしょう。

さらに空海の母方である阿刀氏のルーツを遡っていくと、単に秦氏らとともに大陸系の渡来民族に繋がっていたことがわかるだけでなく、阿刀氏と呼ばれる一族そのものが、神宝の取り扱いと深く関わりを待っていたという歴史的背景が存在していた可能性が見えてきます。もしかすると、秦氏と同様に阿刀氏の出自も西アジアのイスラエルに由来するのかもしれません。それゆえ、阿刀氏の家系に属する者として、空海も神宝の取り扱いに興味を持っていただけでなく、実際に代々から伝承されてきた言い伝えも含めて、さまざまな知識を既に吸収していたと想定されます。こうして空海はいつしか、神宝問題を解決するための第一人者として、天皇より信任を受けるようになったのです。

空海の知られざる7年の真相

平安宮(大内裏)付近
平安宮(大内裏)付近
これらの背景から、空海の知られざる7年間を解明するためには、単に空海の文献を検証するだけでなく、空海をとりまく政治と宗教の環境を見直しながら、文化交流の裏に潜む権力闘争や、怨霊対策に取り組む宗教家らの働き、また知識階級の人脈と相互関係などにも目を留め、それらがどのように空海の生涯に影響を与えたかを探る必要があります。そして、当時の凄まじい権力闘争と怨霊問題を肌で受け止めた空海が、自ら察した天命をどう捉え、どのように行動したであろうかと推測することが重要です。

そして空海が消息を絶つ前と、その後、再度姿を現した時とを比較し、それらの共通点から空海が歩んだと思われる軌跡を辿りながら、どこで何をしていたか、どういう人々と面識があったかということを見極めることが大事です。また、平安初期の時代において、神宝を誰が、どのように管理するものであったか、ということにも注視する必要があります。すると、そこには空海と渡来人、特に阿刀氏との関わりや、秦氏の存在、そして和気清麻呂など、多くの識者が怨霊からの解放を願い、共に尽力していた時代の姿が浮かび上がってきます。

大龍寺奥の院 弘法大師が彫られた亀
大龍寺奥の院 弘法大師が彫られた亀
これらの政治や社会的な背景を踏まえ、空海はその対策の一環として、怨霊対策に不可欠な神宝の行方を追い求め、神宝の再発見と宝蔵場所の再確認に全身全霊を注いだと考えられます。その結果、空海は自らの足で全国をくまなく行脚し、日本の霊峰、神宝が祀られていると伝承されている神社の数々を検証したことでしょう。そして怨霊退治に不可欠な神宝の存在を確かめ、それらを聖別し、正しく祀り、そして安全な場所に収蔵することを目論んだのではないでしょうか。

そして驚くことに、再度山にて自らの手で彫った亀の姿に、空海が見出した事の真相に纏わる大切なメッセージを盛り込んだと推測されます。それ故、再度山には2度も訪れ、時間をかけて思いを込め、亀を彫ったのです。その思いを胸に、空海は遣唐使として中国へと向かいました。空海の失われた7年間の真相に迫る鍵は、再度山の亀に秘められているかもしれません。

コメント
  1. 脇 斗志也 より:

    中島先生 アーク は剣山では無く「ドウメキ」塩塚高原の頂上の愛媛と徳島の県境部にあると思います。
    伊予之二名島の真ん中で 八十ハヶ所の結界の中心部です。

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