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2023/06/12

阿刀氏が優れた宗教家である理由 古代日本社会に貢献した渡来者の真相とは

古代文化の土台を築いた渡来者

空海は、母方が渡来人であるがゆえに、その伯父にあたる阿刀大足から少年時代に多くの教養を学ぶことができました。阿刀氏の家系は多くの優れた宗教家を輩出しており、法相宗が興隆できた理由もそこにあるようです。阿刀氏が活躍した時代を理解し、同じ一族である空海との接点を見出すことが、空海の生い立ちだけでなく、その志向性や全国行脚の動機、そして歴史の空白となっている空海の知られざる七年間を理解するための大切な鍵となります。

古代社会において博学であること自体、大陸の文化とつながっていることの証であり、識者の中には中国大陸で学んできた者が少なくありませんでした。特に宗教文化において、中国大陸との交流なくしては、高いレベルの教養を説明することが難しかった時代です。よって古代、日本で活躍した識者の多くは渡来者、またはその子孫であり、日本の歴史はそれらの優れた教養を携えてきた渡来者の貢献によって、その土台が築かれていくことになります。

法相宗の著名僧侶は阿刀氏

まず、空海の活躍と同時期、奈良時代後期から平安初期にかけて法相宗を隆盛に導いた法相六祖の僧侶の一人、大和国出身の善珠に注目です。八世紀の終わり、南都六宗では経典暗誦よりも、その解釈を極めることが重要視され、その結果、経典の釈義に長けていた法相宗が他宗を圧倒するようになりました。当時、法相宗のリーダー格であった善珠は、朝廷とも深い関わりを持ち、皇太子安殿親王の厚い信頼を受けていただけでなく、殉死した早良親王とも交流がありました。また、秋篠寺を開基し、そこでは後世において法相宗と真言宗が兼学されることになります。

この善珠こそ、法相宗法脈の頂点に立った玄昉の愛弟子であり、しかも玄昉が護身を勤めた藤原宮子との間にできた子とも言われています。そして善珠の卒伝には「法師俗姓安都宿禰」、玄昉も「玄昉姓阿刀氏」と書いていることから、ともに阿刀氏の出であることが伺えます。さらに「東大寺要録」を参照すると、玄昉の師である義淵(ぎえん)も阿刀氏なのです。つまり義淵から玄昉、そして善珠と引き継がれてきた法相宗の法脈は、まぎれもなく阿刀氏によって継承され、奈良から平安時代初期にかけて、その宗教政治力は頂点を極めました。

霊力を求めて繋がる朝廷と法相宗

平安初期、朝廷が悩まされた早良親王の怨霊問題についても、法相宗の僧侶らは積極的に怨霊対策に関わっていました。特に善珠は、早良親王の「怨霊」を語るだけでなく、霊力をもって鎮めることもできたと伝えられたため、天皇の厚い信任を得たと言われています。善珠が僧侶として出家する前の俗姓は、阿刀氏であったことが知られています。

善珠が法相宗を代表する学僧であり、法相宗は徐々に政権に強い影響力を持ち始めた南都六宗のひとつでもありました。桓武天皇はその南都六宗の影響下から逃れるために、奈良の平城京から長岡京へと、大胆な遷都に踏み切りました。そのような背景を顧みるならば、対立関係にあったと思われていた朝廷と南都六宗の僧侶との関係がうまくいくわけはありません。ところが実際には、朝廷と法相宗のリーダーは緊密な関係を保っていたことが知られています。

朝廷は怨霊を恐れるあまり、藁をも掴む思いで霊力を有する者であれば、躊躇せずどんな僧侶でも登用しており、最澄ら地元で活躍する宗教家だけでなく、奈良を拠点とする善珠らにも声が掛けられました。こうして多くの優れた宗教学者を輩出した法相宗は、その信仰心と霊力をもって朝廷に仕え、祭祀役割を担う人材としても抜擢されていたのです。

阿刀大足の教えを受けた空海

その法相宗の流れをくむ学者の一人が、空海の母方の伯父である阿刀大足です。朝廷において桓武天皇の子である伊予親王の侍講を務めた阿刀大足は、皇子だけでなく、空海にも教えることになりました。その結果、伊予親王だけでなく、空海も阿刀大足を通じて法相宗の僧侶らと親交を深める機会があったと考えられます。それゆえ、空海は南都六宗のありかたを批判することはあっても、友好的な関係を保ち続け、後に高野山を開いた際も、穏やかに聖地を構えることができたのです。

こうして奈良時代、宗教界においては阿刀氏の出自である僧侶らが、大きな勢力を誇るようになりました。そして天皇と朝廷の貴族、及び、南都六宗で一番の勢力を持つ法相宗、双方の人脈に恵まれた空海は、国家の平和と皇室の大安を願いつつ、自身も天皇に仕える身として、国家の繁栄と怨霊からの解放のために尽力したのです。その結果、天皇の篤い信任を得てることとなり、それまで誰も手がけることができなかった神宝の処遇に関する調査など、重要なプロジェクトを朝廷より賜ることになります。

阿刀氏が渡来人である由縁

阿刀氏がこれほどまでの宗教政治力を持つに至った背景は、大陸に纏わる阿刀氏のルーツを検証することにより、明らかになります。阿刀氏は安斗氏とも書き、物部氏の系列の氏族です。平安遷都の際に、阿刀氏の祖神は河内国渋川群(今日の東大阪近辺)より遷座され、京都市右京区嵯峨野の阿刀神社に祀られました。明治3年に完成した神社覈録(かくろく)によると、その祖神とは阿刀宿禰祖神(あとのすくねおやがみ)であり、天照大神(アマテラスオオミカミ)から神宝を授かり、神武東征に先立って河内国に天下った饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の孫、味饒田命(アジニギタノミコト)の子孫にあたります。

平安初期に編纂(へんさん)された新撰姓氏録にも阿刀宿禰は饒速日命の孫である味饒田命の後裔であるという記述があり、同時期に書かれた「先代旧事本紀」第10巻、「国造本紀」にも、饒速日命の五世孫にあたる大阿斗足尼(おおあとのすくね、阿刀宿禰)が国造を賜ったと書かれています。

「先代旧事本紀」が証する阿刀氏のルーツ

古文書の解釈は不透明な部分も多く、「先代旧事本紀」などは、その序文の内容からして偽書とみなされることもありますが、物部氏の祖神である饒速日命に関する記述については信憑性が高いと考えられています。その結果、明治15年ごろ、京都府により編纂された神社明細帳には、阿刀宿禰祖味饒田命が阿刀神社の祭神であると記載されることになりました。阿刀氏の出自が、国生みに直接深くかかわった饒速日命の直系であることは、大変重要な意味を持ちます。

さらに「先代旧事本紀」には、饒速日命と神宝との関わりについても多くの記述が含まれていることに注目です。その内容を日本書紀、古事記と照らし合わせて読むことにより、饒速日命の役目がより明確になります。まず日本書記によると、天照大神から統治権の証として神宝を授かった饒速日尊は、弟の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が日向の高千穂峰に降臨する前に、船で河内国に天下り、その後、大和に移ったとされています。「先代旧事本紀」によると、この神宝は天神御祖(アマツカミミオヤ)から授けられた2種の鏡、1種の剣、4種の玉、そして3種の比礼であり、「瑞宝十種(ミズノタカラトクサ)」であると具体的に記されています。その後、神武天皇が即位する際、饒速日命は瑞宝十種を譲渡し、天皇の臣下として即位の儀式を執り行い、天皇家に関わる各種の定めを決めることに貢献しました。

古事記が証する阿刀氏の祖、瓊瓊杵尊

また、古事記には神武天皇の東征に絡んだ饒速日命に関する記述があります。大和の国へ進出した饒速日命は、その地域を支配していた豪族の長髄彦(ナガスネヒコ)を一旦は服従させ、長髄彦の妹を妻にします。その後、瓊瓊杵尊の孫にあたる後の神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)が東征して長髄彦を打ち破った際に、天皇が天照大神の子孫であることを知り、饒速日命は神武天皇に帰順します。それからは、祭祀の役目を一筋に担うことになります。

つまり、天照大神の孫である饒速日命は、天神御祖の勅令をもって神宝を管理し、祭祀の役目を担い、国治めを支えるために尽力した大祭司だったのです。同じ兄弟であっても、兄の饒速日命は宗教儀式を司る責務を負う家系の長となり、祭司や僧侶を輩出する一族となったのです。そして弟の瓊瓊杵尊は、皇室の原点となる神武天皇をはじめとする皇族を輩出する一族の流れとなり、それぞれが別系統の血筋を継いでいくことになります。

イスラエル祭司の血統を継ぐ阿刀氏

これら天孫降臨に関する古文書の記述は、実際にあった出来事を、史実に基づきながら神話化したものであると考えられます。それゆえ、これらの神話にはおよそすべて、そのモデルとなった人物が実在したのではないかと推察できます。中でも、祭司の役目を遣わされた一族らは、何の縁もない新天地から突然にして宗教文化が発展する訳もないことから、外来の宗教文化を積極的に取り入れながら、それを日本の国土にて花開かせいたと考えられます。

日本古来の宗教文化は、その宗教的儀式や風習、仕来りが、西アジア、イスラエルの宗教と類似する点が大変多いことから、おそらくイスラエルのユダヤ教に準じたものであり、それをベースに日本固有の宗教文化に発展したものと考えられます。その前提で推測すると、日本に最初に渡来し、イスラエルの宗教文化を携えてきた初代イスラエルからの渡来者は、船を用いてアジア大陸の南岸を航海して、南西諸島に到達したことでしょう。まさに聖書にも約束された東の海の島々へ到達することができたのです。

一行のメンバーは、預言者イザヤと妻、子供、および神宝の取り扱いを任されたレビ族のリーダー達、及び、長い船旅を可能にする船乗り達でした。王系一族であるユダ族のイザヤは、祭司レビ族の一行と共に、多くの神宝を携えて日本に渡来したのです。イスラエル12部族のうち、レビ族のみが神宝の取り扱いを許された祭司の一族だったことから、神宝の取り扱いのために、レビ族の同行は必須だったのです。

そのレビ族の血統を継いだ、渡来者の最初の子孫が饒速日命と考えられます。そしてその末裔として、阿刀氏が歴史に登場することになります。前述のとおり、阿刀氏の祖神は饒速日命(にぎはやひのみこと)の裔である阿刀宿禰祖神(あとのすくねおやがみ)であり、「先代旧事本紀」にも、饒速日命と神宝との関わりについて詳細の記載があります。だからこそ、阿刀氏は、祭司活動に余念がなく、日本の宗教史に多大な貢献を成し遂げることができたのでしょう。

「新撰姓氏録」では饒速日命は高天原の出身であることが記されています。この高天原とは、初代イスラエルの渡来者が、日本列島を訪れた際に、最初の拠点とした琉球の地域に存在すると想定されます。そこは赤道にも近いことから、夏至の日には天空のほぼ頂点に太陽が昇ることから、高天原と呼ばれるようになったのでしょう。その琉球、高天原から天下り、南方諸島を経由して、初代の渡来者は日本列島に到達したと考えられます。アジア大陸からの一行の旅の途中、高天原で出生したのが饒速日命です。

このように、阿刀氏のルーツが饒速日命から高天原までさかのぼるという説明において、歴史的なつじつまが合うこと自体、阿刀氏の出自はアジア大陸に由来し、しかもイスラエルと深く繋がっていた可能性が高いと言える根拠になるでしょう。

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