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2014/02/18

高天原のレイライン -古代の英知が証する高天原の比定地-

「高天原神話の背景に潜む南西諸島の存在」の章では、古代の渡来者が日本列島を訪れる際に、安息の拠点となった場所が南西諸島に存在し、その中心地である沖縄諸島周辺が、後に高天原と呼ばれた場所である可能性について言及しました。沖縄諸島は、大陸に繋がる東シナ海の大陸棚の端に並び、その宗教文化は西アジアのイスラエルの宗教に類似している点が多いことからしても、文化交流の一大拠点として古代から重要視された地域であることを再認識する必要があります。

昨今のDNA検証の結果から、大陸より渡来した古代人が中国の南方より日本列島に移住してきただけでなく、稲作文化の流入経路も、実は日本列島の北方からではなく、南方から北へと伝播されてきたことが分かってきました。これら学術的根拠に伴う古代文化と人の流れを踏まえると、優れた古代の航海技術を携え、特定の宗教文化に育まれた西アジアからの渡来者が東の島々を目指して船で渡航してきた流れも、そのルートと重なることに気が付きます。台湾界隈から日本列島の最南端である八重山列島、そして沖縄諸島を経由したと考えられる古代の民の想定航路が、南から北へと動いた稲作文化や、DNA検証から解明されてきた古代人の移動経路と一致することは、偶然とは言えないでしょう。日本に大陸の文化をもたらした古代の主役が、西アジアから渡来したイスラエルの民だった可能性をここにも見出すことができます。

大八島国への基点となる沖縄諸島

大陸から日本列島に向けて古代の民が渡航する際、その途中に浮かぶ沖縄諸島は、そこから北方へと繋がる船旅の基点として重要視されました。大陸棚の海溝沿いに九州へと繋がる南西諸島は、古代の渡来者が日本列島に到達する為に必ず通らなければならない難関の海域であり、太平洋の荒波にもまれる危険を覚悟で航海したことでしょう。よって航海の途中、南西諸島の中間地点に浮かぶ広大な沖縄は、正に恵みの島と考えられたに違いありません。島の規模も大きく、自然の環境に恵まれ、長期間滞在するにもふさわしい理想の地であったことから、渡来者にとって極めて重要な安息の拠点として早くから認知されたのです。かくして沖縄諸島では渡来者が往来する度に集落の裾野が広がり、アジア大陸の文化を吸収しながら沖縄本島を中心に、日本古代の文化の礎と特有の宗教文化が育まれていくことになります。特にその中心的な役割を果たした沖縄本島周辺の文化圏においては、世界でも稀に見る、きめ細かい祀りごとを基軸とした特異な島民の文化が発展し、今日でも島々に土着した豊かな宗教文化と多岐に渡る異色の宗教儀式のあり様を窺うことができます。

古代よりアジア大陸の優れた文明と豊かな宗教文化に育まれた日本列島であったからこそ、その歴史のページを綴る古事記や日本書紀等の古文書には、それまでに伝承されてきた古代の民の証と、その貢献に関して多くの物語が記載されているのではないでしょうか。その国生み神話の舞台の中心が当初、沖縄諸島に存在していた可能性があります。沖縄周辺には古代集落の拠点が存在し、大陸から日本列島へ渡来する際の主要航路となる南西諸島沿いにあることからしても、沖縄が古代より重要視されていたことは明らかです。

記紀によれば、古代の民は高天原と呼ばれた聖地に神々がまず結集しており、そこから日本の島々を探索するために特定の神々が指名され、航海の旅に出ました。ごく一般的に高天原は神話に登場する単なる空想の地と考えられがちですが、大陸から日本列島に向けて海を渡ってきた民が拠点として構えた大規模な集落の場所と考えることもできるのではないでしょうか。すると、高天原の場所が、大陸からの航海路において中心的な位置付けを占めていた沖縄とオーバーラップしている可能性が見えてきます。高天原の位置付けを沖縄諸島と仮定することにより、記紀の内容が、より現実味を帯びてくるだけでなく、古代史の流れを何ら矛盾なく読み通して理解することができることに注目です。

そこで今一度、高天原が南西諸島の沖縄周辺に存在した可能性があるという前提の元に、国生みの背景と古代聖地に纏わる情報を記紀の内容から整理してみましょう。その上で、高天原の比定地を沖縄としたレイラインが存在するか否か、確認することとします。国生みの原点となる高天原が実存した場所であるとするならば、そこから日本列島各地へと神々が天下りする話は、島探しの航海を意味することになります。そして未知の島々へ旅立つ危険含みの航海だからこそ、旅の指針となる指標の特定は極めて重要であり、その手段の一つとして、国生み神話に登場する複数の聖地と高天原を結ぶレイラインが用いられた可能性があるからです。古代の民は闇雲に長旅に出ることはなく、経験則に基づく地勢と旅路に絡むデータを十分に分析した上で、更に天体の動きや、方角、季節、潮の流れ、その他、様々な指標等を検証しながら旅立ったのです。よって、高天原が沖縄に存在したとするならば、沖縄と日本列島各地の聖地を結ぶレイラインが存在するだけでなく、そのレイライン上に存在する聖地そのものに、重要な意味が秘められているのではないでしょうか。

記紀が証する高天原の場所とは

まず、日本書紀の神代に、「高天原所生神、名曰天御中主尊」と記載されていることに注目してみました。天地が初めて分かれた際、高天原に生まれた神は、天御中主尊であったというこの文章が、高天原に関する最初の記述です。伊弉諾尊による国生み以前に、高天原が存在していたことになります。すると高天原とは、国生みの旅へと出発する基点であり、南西諸島を北上した大陸からの移民の流れを考慮するならば、その途中の沖縄諸島界隈に存在した可能性が見えてきます。その後、伊弉冉尊と伊弉諾尊による国生みの働きにより日本列島が見出され、島々が命名されることとなります。

日本書紀における次の高天原の記述は、伊弉諾尊の娘である天照大神に対し、高天原を治めることが命じられた話です。その時点では、既に伊弉冉尊は紀伊国の熊野に葬られ、その呪いから解き放たれるために伊弉諾尊は、筑紫の日向で禊祓をされたことが記載されています。国生みの当初から古代の民は、本州から九州までを自由自在に海を行き来していたことがわかります。このように日本書紀の記述には、現存する具体的な地理名が多数含まれています。それ故、高天原という場所も実存し、天照大神が高天原を司る命についても単なる神話の世界ではなく、実際に一人の女性リーダーが高天原と呼ばれた場所を統治したことを神話化したものと推定しても不思議ではなくなります。

スサノオが天照大神に会いに行くために天に昇られたという記述が、高天原に関する3番目の記述です。スサノオは出雲国の玉作りを祖とする神(注:古語拾遺)から献上された八坂瓊の曲玉を携えて、高天原に到着します。そして天照大神との誓約(うけい)を経て生まれた3人の女性の神が筑紫の宗像に遣わされることになり、北の海の道中を行き来する天孫を守護する役目を仰せつかります。高天原に関連して登場する宗像の位置付けは、スサノオが統括する海原の一部であり、重要です。スサノオは日本海を統治する役目を担い、そこを基点として各地を航海していたからこそ、宗像や出雲はスサノオの行動範囲にあったのです。そして、その日本海から姉の天照大神に会いに高天原へ向けて航海することになったのです。

その後、スサノオの乱暴な行為に立腹された天照大神は、高天原に存在する天の岩戸を閉ざされて、お隠れになりました。その際、天香山から掘られた真坂樹や、そこで採取された金を用いて鋳られた日矛、紀伊国の日前で織られた天羽鞴(あめのはぶき)、そして粟国(徳島・四国)で作られた木綿などが、天照大神を誘い出す祝詞を祈る際に用いられたのです。また、その後のスサノオと天照大神とのやりとりの中には、出雲国だけでなく山代国、武蔵国、茨城国の名前も出てきます。日本列島の各地の拠点から数々の捧げ物が高天原へ届けられたという記述に含まれる地名は、国生みの中に含まれている島々に存在し、今日でも確認することができます。そして多くの地域から贈られた貢物が高天原へ届けられたということは、やはり、高天原がその島々の枠の外に存在すると考えるのが妥当ではないでしょうか。

古事記においても高天原の存在は極めて重要であり、天地の初は高天原に関する記述から始まっています。高天原という場所は、国生みに記載されている日本の島々とは別格の場所として位置付けられ、伊弉諾尊・伊弉冉尊が国生みの際に水蛭子の問題を抱えた時も、天つ神の指示を仰ぎ求めるために旅した場所でした。ここに高天原の距離感があり、そこまで参上するという覚悟が必要なほど、長い旅の道のりがある場所に存在したように受け止められます。また、古事記でも天照大神が高天原を治め、スサノオは海原を治めることが任されたことが明記されています。出雲と朝鮮半島を行き来していたスサノオが統治した海原とは主に大陸と日本列島の間に存在する北方の海原、すなわち日本海の話であり、国生みで命名された島々は葦原中国であることから、天照大神が統治を任された高天原とはそれ以外の地域で日が高く昇る場所、すなわち日本列島の南方の地域に存在したことになります。

高天原は実存しないという見解もありますが、記紀の内容から察するに、慎重な検証が必要です。例えば古事記によると、天香山の地名は祝詞をする際に捧げる様々な品を作る為の拠点として重要視され、その他、出雲国、筑紫の日向、宗像(胸形)、更に近江の多賀など、様々な地名が登場します。これだけ多くの具体的な地名と、物語の内容が詳細まで記されていることから、高天原だけが実存しない空想の地名であったとは考えづらいのです。いずれにしても、高天原と呼ばれた場所から列島を探索して島々を特定する任務を背負った旅行団が出発した可能性は否定できないのです。

その後、国造りに励み、スサノオの娘を娶ることとなった大国主神に対し、スサノオは様々な試練を与え、それらを乗り越えた大国主尊に告げた言葉が、「於高天原氷椽多迦斯理而居」です。葦原中国を支配する長として認められた大国主神に対し、出雲の宇賀の山の麓にて、頑強な基礎となる石の上に宮柱を太く建て、「高天原(のよう)に氷椽(ヒギ)をそびえ立たせて住め」と、スサノオは命じたのです。氷椽とは千木とも書き、日が高く昇る高天原のように、天に向けてチギが屋根の上で交差して高く突き出す神殿の光景は、大国主神が葦原中国の支配者であることを象徴する証でした。こうして出雲の地でも高天原に習い、荘厳な建造物が造営されることとなりました。

そして国造りが進む中、大国主神の前に海を照らしながら近づく神があったと、古事記には記されています。その神とは「坐御諸山上神也」であり、三輪山を意味する御諸山に鎮座する真の神のことを指します。その真の神を大和の青垣、東山の上で祭れ、と大国主神に対して神が命じた訳ですから、それを告げられた大国主神は人間であったこともわかります。そして葦原中国は高天原から派遣される神々によって統治されるようになり、天照大神の子である天忍穂耳命が統治者として任命されます。これらの話の展開から察するに、高天原とは空想の場所ではなく、やはり実在した場所であった可能性が高いことがわかります。

高天原は沖縄に存在したか

古代の民は船を用いて海を渡り巡りながら、各地へと移動していたことに注視する必要があります。記紀の神代に関する記述を振り返ると分かる通り、古代の神々も、主に海を介して旅をしていたのです。高天原からの国生みの始まりも、船による島々の探索を意味していました。高天原から船を用いて航海し、そこから列島を巡り渡りながら位置確認をし、それぞれの島を命名したのです。それ故、大八島国の中に基点となる高天原が含まれるはずはなく、国生みにより見出された島々の枠の外に存在したと推定できます。

スサノオが高天原へと向かった際にも、当然ながら船が用いられました。もし、高天原が本州や四国に存在したとするならば、日本海側の拠点からは、陸路を通って南方へ旅したはずです。日本海側と瀬戸内の間は、険しい山道を避けて行き来できる山裾の陸路に恵まれていました。よって、陸路を歩いた方が早く、安全に旅することができたのです。その陸路を通らず、航海の旅に出たということは、本州よりも更に南の島々に向かったとしか考えられません。また九州はどうかというと、筑紫は国生みに含まれる島であることから、その中に高天原があるということも辻褄があいません。また、胸形(宗像)や筑紫の日向の名前も記紀に含まれており、これらが後の活動の拠点として記されていること自体、やはり、九州からも距離感のある場所に高天原が存在したと考えられるのです。

スサノオが治めた日本列島北方の日本海に相対するのが、南西諸島を取り巻く大海原であり、その中心として早くから認知されたのが、太陽が天高く昇る天の原、つまり高天原とは考えられないでしょうか。つまり、高天原はスサノオが支配する北の日本海に相対する南の島々だったのです。赤道により近い南方に位置することから、高天原では日が高く昇り、また、そこは海原を眺めることのできる島でもありました。それ故、高天原から旅立つ民は、いつも船で航海し、そこから出雲までも往来していたのです。

日本最高峰富士山剣ヶ峰の石碑(標高3776m)
日本最高峰富士山剣ヶ峰の石碑(標高3776m)
南西諸島の中心である沖縄諸島を高天原の比定地とすることにより、スサノオが拠点とした出雲だけでなく、八岐大蛇を退治した際に用いた十握剣を宝蔵した石上布都魂神社や、西日本最高峰である石鎚山、そして列島最高峰の富士山も、互いにレイラインで結び付いていた可能性が極めて高いことを、地図上で確認することができます。つまり、古代よりこれらの聖地は意図的に同一線上に紐付けられており、そこに古代の知恵を垣間見ることができます。そして日本書紀の舞台は高天原から出雲へと移り変わり、スサノオを主人公とする八岐大蛇との対決の話へと進んでいきます。そしてスサノオの剣が宝蔵された聖地が、高天原を沖縄と比定したことを前提としたレイライン上にピタリと存在することは、高天原が沖縄にあったことの裏付けと言えるでしょう。

高天原のレイラインが証する史実

高天原の比定地が沖縄本島周辺であるとするならば、高天原は古代の一大拠点であるだけに、沖縄と日本列島に広がる聖地を結ぶレイラインが存在するはずです。レイラインは複数の地を紐付け、地の力を共有する働きがありますので、高天原に結び付く指標となる場所が、国生みの対象となる島々の中に存在したと想定できます。高天原の比定地を通るレイラインを検証することは重要であり、その結果、見事に国生みの働きに関連する様々な聖地を、高天原を沖縄とするレイライン上に結び付けることができます。

まず、古代においては旅の指標として重要視されたのが巨大な山や、半島、岬などでした。よって「東の島々」を旅する際の指標として最も重宝されたのも、当初からこれらの自然の地勢が示すわかりやすい指標だったのです。南西諸島から海を航海して北上するにあたり、旅人の誰もがまず重宝したのが、南西諸島の最北端に聳え立つ、屋久島の最高峰であったに違いありません。鹿児島の南に聳え立つ屋久島は、島の規模が約500km2と大きくはないものの、屋久島のほぼ全域が山地で、その中心となる宮之浦岳 は西日本最高峰の石鎚山や剣山に匹敵する標高1,936mを誇ります。また、屋久島の南方で南西諸島に沿って北上してくる黒潮の流れが大きく東方に迂回して通り抜けることからしても、海を渡って日本列島に到来する旅人は、必ずその近海を通り抜けることになります。遠くから方角を確かめながら見定めることのできる屋久島は、いつの日でも大切な指標として用いられたことでしょう。

四国の石鎚山も屋久島に並び、古代の重要な指標でした。西日本最高峰の石鎚山は標高1982mを誇り、屋久島との標高差は46mしかありません。古代の民にとっては島の大きさ如何に関わらず、その島で一番高い所、最高峰の山というものは、天に一番近い聖なる場所として常に重要視されました。その意味でも、石鎚山の存在は、屋久島と同じく大事だったのです。そして驚くことに、石鎚山と屋久島を結ぶ線が、沖縄の那覇と一直線上に並んでいるのです。更に、その線の北方では、スサノオが八岐大蛇を退治した際に用いた十握剣が当初、宝蔵された石上布都魂神社が存在し、これまた同一線上にピタリと並んでいます。周囲に何の目印もない、小高い山並みだけが広がる備前の地において、石上布都魂神社の地が見出されたのは単なる偶然ではなく、レイラインの知恵を用いた結果だと言えます。備前の聖地は、沖縄、及び、西日本の高山と結び付ける必要があったからこそ、レイライン上に特定されたのでしょう。このレイラインは沖縄を原点としていることから、そこから引かれるレイライン上に石上布都魂神社の地が見出だされたことは重要です。その場所をスサノオが特定したということは、つまり、スサノオが沖縄の存在を知っていたことになります。沖縄を高天原とすることにより、スサノオは天照大神がおられた沖縄を訪れていたことになり、レイラインが沖縄を基点としている謎も解けます。

スサノオが活躍された聖地として出雲の知名度は高く、今日でも出雲大社には多くの参拝者が訪れます。出雲の聖地は元来、出雲大社が建立されている場所の北側にある八雲山と考えられます。古代の聖地であり、多くの埋蔵物があると考えられる場所であることから、八雲山は今日まで禁足地と指定され、何人も足を踏み入れることが許されていません。その八雲山と沖縄が繋がっていることは、「出雲と石上布都魂神社のレイライン」でも解説している通りです。沖縄本島の西に浮かぶ伊江島の最高峰城山(グスクヤマ)と、その北側の伊平屋島に隣接し、ヘブライ語で「神の岩」を意味するヤーへー岩を結ぶレイラインが、そこから1,100km以上も離れた北の聖地、出雲の八雲山に直結していることに驚きを隠せません。しかもヤーへー岩は、城山と同じ形に人為的に削られたと考えられるのです。

また、古代レイラインの基準線でもあり、日本列島を斜めに横切る最も長いレイラインも、沖縄の那覇を基点として南西諸島の最北端から淡路島の神籬石を通り抜け、三陸の八戸に繋がっています。古代から淡路島は東の島々の中心として認知されていたと考えられ、その中心である神籬石の南方には沖縄が、そして北方の端には八戸が存在するという基本的な地理感から、日本列島の位置付けが当初、確認されたとも考えられるのです。そして淡路島の中心から夏至の日の出方向に縄文初期の巨大な阿久遺跡が発見されたことからも、淡路島の位置付けは古代から重要視されていたことを知ることができます。

また、イスラエルの都、エルサレムと同緯度に存在する中甑島のヒラバイ山を結ぶレイラインも、高天原のレイラインに絡んできます。古代イスラエルの民にとって、南西諸島を北上する際に休息の地として重宝した那覇、沖縄諸島は大事な拠点でしたが、エルサレムと同緯度にある甑島も、旅の指標として用いられたのです。そしてヒラバイ山と石鎚山を結ぶレイライン上には高千穂という九州の聖地が見出され、富士山を結ぶレイライン上の先には東の寄港地の一大拠点となった鹿島の地が特定されました。無論、ヒラバイ山と淡路島の神籬石を結ぶ線の北方には、古代の大集落、阿久が存在し、イスラエルからの渡来者が日本列島に到来した時より大切にした守屋山も、諏訪湖そばにあります。

これらの指標や複数の聖地が見事なまでにレイライン上で繋がることは、それぞれの位置付けが古代より重要視されていたことの証であるだけでなく、それらが聖地として特定されるために、沖縄諸島の存在が古代から認められ、重要な役割を果たしていたと考えて間違いないでしょう。つまり沖縄を基点とするレイラインの線引きができたからこそ、八戸(ヤーへー)の地も特定することができ、出雲の聖地と淡路島を相互に紐付ける位置も、確認することができたのです。中でも重要なのは、沖縄から屋久島、石鎚山、そして十握剣の宝蔵場所となる石上布都魂神社のレイラインであり、屋久島を目指して一直線に北上するということは、西日本最高峰の聖山に繋がるということからしても、重要視されたに違いありません。

これらのレイラインの存在から、最古の聖地として古代の渡来者が拠点を置いた場所が、見事に浮かび上がってくるのが、レイラインの不思議です。日本列島に見出された多くの聖地はレイライン上に網羅され、島々全体の位置や方角を確認しながら、それらの聖地は人々により大切に育まれていったのです。高天原が沖縄であるという理由を、これらレイラインの存在からも知ることができます。高天原のレイラインとは、沖縄諸島と屋久島、石鎚山、淡路島、そして出雲の聖地に紐づけた線を基本とし、沖縄、高天原と出雲を直結して結ぶだけでなく、出雲を通る他のレイラインや、エルサレムに繋がる他のレイラインを通じて、日本列島に聳え立つ最高峰の山々全部を網羅する、極めて重要なレイラインとして、古くから認知されていたと考えられます。

高天原のレイライン
高天原のレイライン
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