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2024/07/19

神輿の起源と祇園祭の関係 海と船に結び付く神輿の背景に潜む「契約の箱」

祇園祭の真骨頂は神輿渡御

祇園祭 長刀鉾
祇園祭 長刀鉾
京都の祇園祭では1か月にわたる祭のピークとして、7月17日に行われる山鉾巡行の前祭が有名です。例年10万人を超える大勢の観衆が押し寄せる山鉾巡行では、34基もの山鉾の行列による巡行が行われます。山鉾巡行により、夕方に行われる神輿渡御が進む道筋が清められ、御旅所(おたびしょ)と呼ばれる八坂神社の神霊社にてお祓いを受けた後、スサノオが祀られている八坂神社が遥拝されます。御旅所は豊臣秀吉の時代より、四条寺町の南側にある通称「四条御旅所」に存在します。

山鉾巡行に続き、夕刻からは神幸祭(しんこうさい)が行われます。三基の神輿は八坂神社から出てこられた分霊をお迎えするため、四条通りを御旅所(おたびしょ)まで渡御して鎮座します。そして17日の晩より1週間、神輿は御旅所に滞在します。その7日間、誰にも話をせず連夜にお参りをすれば、願いごとが叶うと言い伝えられたことから、「無言詣り」が行われるようになりました。日中に行われる山鉾巡行は、神輿渡御のための儀式であることからしても、神幸祭の神輿渡御(みこしとぎょ)こそ、祇園祭の中心となる大切な行事だったことがわかります。

祇園祭の発端となる祇園御霊会では、古くから神輿渡御が祭の主役でした。その見どころは、中御座、東御座、西御座の三つ神輿が八坂神社にて同時に高く担ぎ上げられるという、豪快な「三社揃い踏み」です。この神輿渡御こそ、祇園祭の真骨頂と言えます。その後、7月24日の夕方、3基の神輿は御旅所を出発し、巡行した後、八坂神社に還幸します。現在では山鉾巡行の注目度が高く、必ずと言って良いほど例年全国ネットのニュースでも紹介されていることから祇園祭の代名詞のように目に映りますが、従来は神輿渡御がメインイベントだったのです。

神輿渡御の下準備となる神輿洗式

神輿渡御にてスサノオを祀る中御座の神輿
神輿渡御にてスサノオを祀る中御座の神輿
例年、祇園祭の神輿渡御には下準備が必要です。よって、7月10日の夜には神輿洗式(みこしあらいしき)が執り行われ、3基の神輿が浄められます。中御座神輿はスサノオが祀られ、神輿の屋根の上には鳳凰と呼ばれる金の鳥が飾られます。2基目は東御座神輿と呼ばれ、スサノオの妻となる櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)が祀られ、神輿の屋根の上には鳳凰と呼ばれる金の鳥が飾られます。2基目の東御座神輿にはスサノオの妻となる櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)が祀られ、屋根の上には擬宝珠(ぎぼし)が飾られます。3基目は西御座神輿と呼ばれ、スサノオの子、八柱御子神(やはしらのみこがみ)が祀られています。スサノオが祀られる中御座神輿と同様に、鳳凰が屋根の上に飾られます。これらの神輿はすべて、2本の長い木の棒の上に、神輿が載せられた形で担がれることになります。

祇園祭 山鋒巡行
祇園祭 山鋒巡行
神輿洗式の当日、3基の神輿のうち1基のみが鴨川四条大橋まで担がれ、神輿を清める神事が行われます。その後、八坂神社に戻り、17日に行われる神輿渡御のため、3基全部に飾りが付けられるのです。17日の当日、まず、山鉾巡行が先行して大勢の観衆が京都を埋め尽くす最中、祭のムードは一気に盛り上がりを見せます。夕刻になると八坂神社の神幸祭において出発の儀が執り行われ、祭の主役である豪華な3基の神輿が大衆の前で担がれて進み、祇園祭は豪華な最高潮に達します。神輿こそ、祇園祭の主役であったことがわかります。

海と船に関連する神輿の真相

<祇園祭 船鉾に施された波のデザイン
祇園祭 船鉾に施された波のデザイン
これら祇園祭にて担がれる神輿のルーツには、何かしら海との関わり合いが見え隠れしているようです。それは皇族が関与する神社、神輿、山車の彫刻や装飾などに、波や鳥のデザインが多数見かけられることからも推測できます。たとえば伊勢神宮の御神宝は、御船代(みふなしろ)と呼ばれる船の形の容器に収容されています。明治神宮の建物にも屋根の部分に波唐草という波の模様が描かれています。また、宮崎県の青島では山幸彦、豊玉姫、塩筒大神を祀り、神輿を載せた船を先頭に、海上渡御が行われます。その他、全国各地で神輿を担いで、海の中に入っていく海中神輿の祭も開催されています。

これらは神宝や皇族に結び付く日本の祭のルーツが、海や船に関わっていることをほのめかしています。同様に祇園祭の神具からも、波や鳥のデザインが多く見られることから、祇園祭の神事や御祭神、神輿のルーツも、海や船に結び付いていることが理解できます。

剣山 山開き祭り
剣山 山開き祭り
また、祇園祭に限らず、多くの祭において担がれる神輿の上には、金色の鳥、もしくは鳳凰と呼ばれる鳥のような動物が置かれていることにも注視する必要があります。例えば祇園祭の神輿渡御では、スサノオを祀る中御座神輿の屋根の上に、伝説の霊鳥なる大鳥なる金色の鳳凰が翼をひろげた姿で置かれています。2本の木の棒によって担がれた煌びやかな聖なる神具の上に、金の鳥がその翼を広げている姿は独特な雰囲気を醸し出しています。祭で使われる神具は、海と船のテーマに関連しているだけでなく、金の鳥とも何等かの関わりがあるようです。

日本の神輿と「契約の箱」の類似点

「契約の箱」と宝蔵された「三種の神器」
「契約の箱」と宝蔵された「三種の神器」
そこで、祇園祭においても古代より大切な神具として重宝されている神輿について、その詳細を振り返ってみましょう。多くの日本の祭で用いられる神輿のデザインは、実はアジア大陸の西方にあるイスラエルの神宝、聖櫃とも言われる「契約の箱」に酷似しています。世界中どこを見渡しても、イスラエルの「契約の箱」と同じような形をした神輿を祭の神事に用い、それを大勢で担ぎながら、歓声をあげて神様をお祭りする民族は、日本しかありません。イスラエルではモーセの時代から、神の象徴であり、そこに神御自身が臨在すると信じられた契約の箱は、2本の木の棒で担がれ、民と共に移動されたのです。契約の箱は金箔で覆われているだけでなく、その屋根の上には2羽のケルビムと言われる金の鳥の形をした守護神が羽を広げて置かれていました。

八坂神社 神輿
八坂神社 神輿
神輿の上に置かれた鳳凰は、まさに「契約の箱」のケルビムという鳥のような姿に酷似しているだけでなく、神輿全体のデザインそのものは、2本の棒によって担がれる「契約の箱」とほぼ、同一の形をしています。また、鳳凰なる金の鳥のくちばしが、小枝を咥えている神輿も全国に散見されます。それは洪水がおきた後、ノアが箱舟にとどまっていた時、箱舟から放たれた鳥がオリーブの葉を咥えて舞い戻ってきたことから、水が引いて地面が乾いたことを知るという旧約聖書のストーリーに準じてデザインされているとも考えられます。

日本の神輿と「契約の箱」には類似点が多いことから、神輿のデザインはイスラエルの神宝を参考にデザインされた可能性を考える必要があります。古代、アジア大陸の西方に位置する北イスラエル王国が崩壊し、南ユダ王国が壊滅する危機に直面していた時、国家を脱出して船に乗り、大陸の南岸を東方へと向かった人々が存在しました。そして国を去る際、イスラエルのエルサレム神殿にて大切に祀られてきた神宝なる「契約の箱」を担いできたのではないでしょうか。国家が侵略され、滅び去って行く光景を目の当たりにしているにも関わらず、先祖代々、最も大切な神宝として崇められ、恐れられてきた神の尊厳と力の象徴である契約の箱を、エルサレム神殿の中に置き去りにしていくことなど、考えられません。大勢の民が長い歴史の中で、偉大なる神の奇跡を多分に見聞きしてきただけに、国から逃避した際、契約の箱も一緒に持ち去ったはずです。

その後、イスラエルからの渡来者が日本列島まで到来し、国造りの時代が幕を開けたと想定するならば、神のシンボルである「契約の箱」は必然的に日本の地に持ち込まれたはずです。威厳ある「契約の箱」が、船旅の途中で無くなることなど想定できないからです。その眩しいほど異様で、かつ美しい光景を醸し出す神宝の存在を後世に伝えるためにも、「契約の箱」に類似したレプリカが作られ、それが神輿の原点となったのではないでしょうか。そして時を経て、全国各地の祭事の場にて神輿は披露され、大勢の民に祝されながら、「契約の箱」のごとく担がれるようになったと推測されます。神輿の背景にはイスラエルの「契約の箱」の存在があったと想定することが、歴史の謎を紐解く鍵になります。

神輿水中渡御の起源は「契約の箱」?

日和佐八幡神社例大祭
日和佐八幡神社例大祭
日本の祭を象徴する神輿の神事は、単に大衆に担がれて、町中を練り歩くだけではありません。全国各地で執り行われる祭の中には、神輿を担ぎながら、そのまま海に入っていく海中神輿、神輿水中渡御の祭もあります。大勢の神輿の担い手が、砂浜より海に浸かり、波に打たれながら海中を練り歩きます。なぜ、神を象徴する聖なる神輿を海水に浸してまで、海中にて神輿を担ぐという不思議、かつ大胆なお祭りを例年、実行するのでしょうか。

一見、無謀な行動に見える神輿水中渡御の有様ですが、そのような海中で行われる神事は神輿のルーツに関わる大切なイベントであったからこそ、古代より何世紀にもわたり、途絶えることなく伝承されてきたのでしょう。それは日本の神輿のような神宝、すなわち「契約の箱」が、船から下ろされる際に海水に浸ったことを象徴しているのかもしれません。もし、古代イスラエルからの渡来者が、「契約の箱」を携えて船で海を渡り、日本列島に到達したとするならば、下船する際に「契約の箱」を担いで行く必要がありました。船を着岸させる港がなかった古代では、船から下ろされた「契約の箱」は海に浸かり、海中から担がれて上陸することになるからです。その際、「契約の箱」は神の命により、箱の下に付けられている4つの輪に2本の木の棒を通して移動することが決められていました。よって「契約の箱」は一旦担がれてから海中に浸り、陸まで運ばれてきたと想定されます。

契約の箱
契約の箱
こうしてイスラエルの神宝は、船を用いて日本まで運ばれ、そして人々に担がれながら海中に入った後、海辺を練り歩きながら上陸を果たしたのではないでしょうか。その不思議な光景は、人々の目を釘付けにしたに違いありません。その劇的なイベントを決して忘れないために、「契約の箱」を担ぐ姿がいつしか神輿の祭りにとって代わり、神を祀る盛大な祭の中心的な行事として全国的に普及したのでしょう。そして、その衝撃的なイベントを代々に伝えて祝うために、時には海中でも神輿を担いでお祭りをするようになり、いつしか神輿水中渡御の祭が全国各地で行われてきたと考えられます。

神輿水中渡御の祭の光景は、あながち意味のない祭の創作ではないようです。その発端と歴史の流れの背景には、船によって新天地なる日本へと向かった船団の存在があり、大切な神宝である「契約の箱」が船から降ろされ、海に浸りながら列島に上陸するという奇跡のシーンが覚えられたのではないでしょうか。だからこそ、海中で神輿を担ぐという、神輿水中渡御の儀式へと繋がったと考えられます。祭人が海中で歓声をあげながら神輿を担ぐ祭事が発展した背景には、古代の衝撃的な宗教イベントがあり、それが神輿の祭へと発展し、日本の宗教文化を象徴する一大イベントになったと想定されます。祇園祭の背景にも、「人と海との和」が息づいていたのです。

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