天皇より信任を受けた空海の役割
794年、平安京への遷都が実現しました。しかし、その後も社会情勢は不安定であり、人々は疫病の蔓延や怨霊の噂に不安な日々を送っていました。そのため、怨霊を鎮め、国家体制を強固にするとともに、天皇家の安泰を図ることが急務でした。こうした状況の中、後に天皇からの厚い信任を受けることとなる空海は次第に頭角を現し、遷都の立役者であった和気清麻呂とも深く関わるようになります。
平安京への遷都にあたり、秦氏は主として経済的支援を担い、和気清麻呂は建築や土木技術の分野で手腕を発揮しました。一方、桓武天皇が恐れた怨霊への対処には、宗教的な知識を備え、助言を与える存在が不可欠でした。宗教に対する深い理解に加え、語学力と優れた文才を備えていた空海は、やがて朝廷との関係を深め、天皇を支える宗教者としての存在感を高めていったと考えられます。
こうして平安京の造営後も桓武天皇は、秦氏、和気清麻呂、空海というそれぞれ異なる分野に精通した優れた人物に恵まれることとなりました。なかでも、当時の朝廷が重視した怨霊や疫病への対策という観点から見ると、空海は宗教面で重要な役割を担い、生涯をかけてその課題に取り組むことになります。悟りを開いた後の空海の足取りを辿ると、なぜ朝廷から厚い信任を得るに至ったのか、その背景の一端が見えてくるようです。
悟りを開いた空海の足取り
国家に貢献することを願った空海は、平安京への遷都が実現した後、正式に僧侶となることを目指すようになりました。そして剃髪得度の式を受けるため一旦、奈良に戻り、当時の規定に従って国家試験を受けたのです。奈良仏教に失望し、大学を中退してまで山中で修行を積み、その後、悟りを開いた空海が、再び奈良に戻ることになった理由は定かではありません。皇族からの奨励があったとも考えられますし、和気清麻呂のような卓越した技術知識をもった博学な方々と接したかったとも考えられます。また、経典を深く学び、神宝の処遇についても知識を得て、自ら怨霊対策に貢献することを願っていたことも、その理由の一つだったのではないでしょうか。
奈良に戻った空海は2年間、奈良大安寺の住僧として、南都六宗の経典などの研究に徹します。その間、神宝の歴史とその処遇、収蔵場所などについても、さまざまな資料に触れながら知識を深めた可能性があります。そして796年、22歳にして唐より来朝していた泰信和上より具足戒を授かります。ところが空海は、庶民の救済を忘れて無益な宗教哲学や立身出世を目指すことに終始する南都六宗を嫌い、「あらゆる僧尼は頭を剃って欲を剃らず」と、痛烈に批判したのです。こうして具足戒を授かった後も、既存の僧侶社会に染まることはなく、自らの信念を貫いて歩み続ける空海の姿をうかがうことができます。
天皇に招かれた空海
遷都した直後の平安京は、四神に守られているにも関わらず、不穏な空気が漂っていました。そして怨霊に対する不安をぬぐい去ることができなかった桓武天皇は、宗教面で助言を与える存在を必要としていました。空海は既に悟りを開いていたことから、その名声は天皇の耳にも入っていたことでしょう。そうした中、天皇に招かれた人物の一人が、空海だったと考えられます。
奈良で勉学に励み、当時、奈良仏教界においても最も勢力のある法相宗の僧侶らと縁故関係を持っていた空海は、奈良の宗教文化にも精通していました。また、仏教思想や日本古来の宗教を熟知し、大陸の文化にも深い理解を有しており、梵語や中国語などの外国語にも長けていたのです。さらに、空海の出身は讃岐、今日の香川県であり、親族の阿刀大足は皇室との関係も深く、天皇の皇子らの教育にも携わっていました。これらの背景を踏まえると、桓武天皇にとって空海は、願ってもない人材だったと考えられます。こうした条件が重なったことで、空海は桓武天皇から厚い信頼を得るに至ったのではないでしょうか。
空海に引き継がれた和気清麻呂の思い
平安京への遷都が実現した時点で61歳であった和気清麻呂は、その5年後の799年に生涯を閉じています。当時の国家情勢は、長岡京の時代と変わらず災害や疫病が続いており、天皇をはじめとする多くの人々が不安な日々を送っていました。そのため、怨霊を祓って国家体制を強固にし、天皇家の安泰を実現することが急務でした。
残された時間が限られていた和気清麻呂は、自らやり残した課題を後継者に託す必要に迫られていました。既に遷都は実現し、怨霊から天皇、ひいては平安京と国家を守るため、都の四方には四神が祀られていました。そして最後の段階として、天皇家の象徴である神宝を略奪から守り、安全な場所に収蔵して祀ることが重視されたのです。
この役割を担う人物として、和気清麻呂は空海にその志を託すことになります。悟りを開いた空海も和気清麻呂と同様に、桓武天皇をはじめとする皇族や庶民が、長岡京の呪縛や怨霊から解き放たれ、国家が守護されることを願っていました。空海にとって、国家の安泰と神宝の守護という志を共有する両者の出会いは大きな意味を持ち、2人は深く共鳴したことでしょう。やがて天皇からの厚い信任を受けた空海は、遷都の立役者でもあった和気清麻呂と思いを同じくして、朝廷の中枢で活躍するようになります。
限られた余生の中で、和気清麻呂は空海に対し、日本国家の怨霊対策に不可欠な神宝の取り扱いや、神を祀る聖地の選定、加えて日本の地勢を見極める方法について、多くの知見を伝えたと考えられます。その結果、若くして博学であった空海は、全国各地を自らの足で巡り、土地の選定方法やその活用、さらには灌漑工事に至るまで、実践的に学んでいくことができたのではないでしょうか。特にレイラインの考え方に基づき、聖地同士が一直線に結び付くという認識と、その地点を見極める手法は、その後の空海の人生に大きな影響を与えることになります。
画像ギャラリー:大安寺




私は和気町在住で、和気清麻呂公を知らべている者です。大変勉強になりました。
現在、和気町民は清麻呂公の偉業を詳しく知
らずに、弓削道鏡事件のみが語られるのみです。
勿論、自称歴史研究者は最澄、空海と関わっていたのは息子の広世だと思っていますし、
秦氏との関係も否定する人が多いです。
霊峰熊山遺跡を見ても秦氏との関係は明らかで平安京のモデルの条里制後も有ります。
宇佐神宮までの道中助けた猪も秦氏だと思っています。
今後も投稿を楽しみにしてます。
しかし私達は熊山を挟んで、香登を拠点とする大勢力の秦氏と和気氏の合作で
霊峰熊山の熊山遺跡も秦氏と境で共同の遺物と考えています。
貴重なご指摘ありがとうございます。熊山遺跡、以前からチェックはしていたのですが、まだ現地を見てなかったので近日中に自分の目で確かめてみたいと思います。そばに和気町が隣接しているだけでなく、周辺には多くの遺跡があることから、明らかに古代、和気氏が重要視した場所であることが見てとれます。そして古代では、近隣の山にて霊峰剣山に結び付く場所を特定し、そこに熊山遺跡となる聖地を造ったのではないでしょうか。熊山遺跡は見事に剣山と南北線をひとつにしています。元伊勢のレイラインでも記載したとおり、元伊勢とはすべて剣山に結び付いており、よって、伊勢に結び付けられた京都御所も剣山と関連する存在になるかと考えています。つまり和気清麻呂の構想の中には剣山が存在したことに違いありません。その一例が再度山です。同様に空海も同じ思いで剣山を思い、再度山の存在を知ったからこそ、そこに2度も滞在することになったのでしょう。こうして剣山を中心に考えると、和気氏とのつながりも見えてくるような気がします。