邪馬台国論争の行方
「魏志倭人伝」を含む「二十四史」の倭人伝の中には、古代、中国大陸にも知られることとなった倭国の存在だけでなく、その中から台頭した邪馬台国についての記述が含まれています。ところが、「魏志倭人伝」や「後漢書倭伝」、「隋書倭国伝」などの史書の記述を頼りに邪馬台国を理解しようとしても、その比定地や地理感などの解釈はさまざまであり、定説がありません。特に邪馬台国の場所については見解の相違が著しく、長年にわたり議論が続いています。これらの史書に記載されている、ごく限られた情報に関わる解釈の相違により、邪馬台国が日本列島のどこに存在していたかが解明されず、今日まで議論され続けているのです。
昨今行われてきた箸墓古墳での「卑弥呼の墓」の遺跡発掘調査の結果からは、数多くある邪馬台国の比定地説の中でもやはり、近畿説に信憑性があるいう見方が増えてきているようです。しかし、たとえ卑弥呼の墓の場所が確認されたとしても、邪馬台国を探す手掛かりにはなるものの、その場所を確定する根拠としてはいささか不十分であり、依然として多分に議論の余地を残すことになります。また、これら2大説以外にも邪馬台国の比定地については異論が多々あり、その議論は尽きません。
邪馬台国の真相を綴る中国史書
果たしてこれらの議論に終止符を打つことができるのでしょうか。いずれにしても、中国史書の情報が邪馬台国の実態を理解する鍵となることから、その内容に目を通して、そこに記録されている内容の全体像を見極める必要があります。そのうえで、それらの情報を歴史の流れに照らし合わせて検証しながら、邪馬台国の比定地も含め、歴史の真相を解明する手掛かりを見つけていくことになります。
数々の中国史書に記載されている邪馬台国の記述内容は、およそ以下のとおりまとめることができます。これらの内容が、邪馬台国の実態を知る手掛かりとなります。
後漢書倭伝
- 楽浪郡の境界は邪馬臺国(邪馬台国)から一万二千里も離れており、倭の西北と境界をなす狗邪韓国から七千余里離れている。
- 気候は穏やかで四季を通じて野菜が育つ。
- 牛、馬、虎、豹、羊、鵲(かささぎ)などはいない。
- 大倭王は邪馬臺国に居住している。
- 桓帝・霊帝(後漢末147-189年)以降、一人の女子、卑弥呼が王となる。
- 女王国から東へ海を渡ること千余里で拘奴国に至る。
- 女王国から南へ四千里で朱儒国に至る。
魏志倭人伝(三国志) - 渡航経路
- (帯方)郡より倭に行くには郡を出発してまず海岸に沿って航行して狗邪韓国に到着する。七千余里である。
- 一つの海を渡り千余里にして対馬国に到着する。
- 次に南へ海を渡り千余里で一大国(壱岐)に到着する。
- また一つの海を渡り千余里行って末盧国に到着する。
- 陸上を東南へ五百里すすむと伊都国に到着する。
- 東南に百里すすめば奴国に到着する。
- 東に百里すすめば不弥国に到着する。
- 南へ水行20日すすむと投馬国に到着する。
- 南にすすみ邪馬壹国に到着する。
- ここは女王の都であり、水行10日、陸行1か月かかる。
魏志倭人伝(三国志)
- 対馬国は千余戸、一大国は三千戸、末盧国は四千戸、伊都国には千余戸。奴国は二万戸の人家、不弥国には千余戸。投馬国には五万戸、邪馬壹国には七万戸の人家がある。
- 伊都国には代々国王がいる。
- 女王国より北の国々はその戸数や道里をだいたい記載することができるが、そのほかの周囲の国々は遠く隔たっていて詳細に知ることができない。
- 女王国の南には狗奴国があり、男子が王となっている。
- 帯方郡より女王国に至る距離は一万二千余里である。
- 女王国は北の国々に対し一大卒を伊都国に置いて検察し、港で文書や賜物の検閲をする。
- 倭の地は温暖で冬でも夏でも生野菜を食べ、みな徒跣で生活している。
- 女王国の東、海を渡ること千余里のかなたに、また国がある。
- その南に侏儒国があり、人の身長は3、4尺にすぎない。
- 倭の地は、島々を経めぐって行くと五千里ほどになる。
隋書倭国伝
- 倭国は百済・新羅の東南、海路・陸路三千里の所にある。
- 大海の中に山の多い島に移住している。
- 倭国の境域は、東西は徒歩5か月、南北は徒歩3ヶ月で、おのおの海に至る。
- 東が高く西が低い地勢。
- 耶靡堆を王都とし、ここが魏志にいう邪馬臺である。
- 楽浪郡の境や帯方郡から一万二千里離れている。
- 会稽の東の方にあたり、儋耳(たんじ)に近い。
- 倭国の戸数は十万戸ほどである。
- 河川が多く、陸地は少ない。
- 阿蘇山がある。突然に噴火し、祈祷祭祀を行う。
- 新羅・百済は倭を大国で珍しい物も多い国として敬仰し、つねに使者を往来させている。
- 百済に渡り(608年)、竹島に至る。南の方にタン羅国(済州島)を望みつつ航海し、はるか大海の中なる都斯麻国(対馬)を経由する。また東して一支国(壱岐)に至り、また竹斯国に至る。また東して秦王国に至る。秦王国の人は中国人と同じである。それからまた十余国を経て海外に到着する。竹斯国から東は、みな倭国に従属している。
邪馬台国への道しるべとなる中国史書
ここでは後漢書倭伝、魏志倭人伝(三国志)、随所倭国伝という三つの著名な中国史書から、邪馬台国に関するコンテンツを抜粋しました。古代、中国大陸で活躍された識者の優れた洞察力と天文学のノウハウ、そして世界の地勢に関する知識を前提に考えるならば、これらの内容には根拠があることに違いなく、重要な情報源となりえます。
中国史書から得ることのできる情報の中でも、以下に注目です。
- 朝鮮半島の楽浪郡から12,000余里離れた地にある。
- 朝鮮半島の帯方郡からみて東南の方向に倭国がある。
- 不弥国から船で30日航海して邪馬台国の港に着く。
- 島に上陸してから邪馬台国まで1か月歩く。
- 四季に恵まれた地域である。
- 山や河川が多く、陸地が少ない島である。
- 邪馬台国の南方には海がある。
- 邪馬台国の東方には海を越えて国がある
これらの中国史書の内容に準じて3Dの地図を参照しながら渡航経路を辿っていくと、意外にも、邪馬台国へのルートがうっすらと浮かび上がってくるようです。中国史書の中でも特に倭国に関する記述が多くみられる「魏志倭人伝」のデータを基に、朝鮮半島から倭国への道を辿りながら、その検証プロセスを、「邪馬台国への古代ルート」で解説します。果たして邪馬台国に到達することができるのでしょうか。
「魏志倭人伝」の原文
「魏志倭人伝」の原文を、以下の4つのセクションに分けて記載します。サブタイトルのみ日本語表記です。
邪馬台国とは
倭人在帶方東南大海之中 依山㠀爲國邑 舊百餘國
漢時有朝見者 今使譯所通三十國
邪馬台国への渡航ルート
從郡至倭 循海岸水行 歷韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
始度一海千餘里 至對馬國 其大官曰卑狗 副曰卑奴母離
所居絶㠀 方可四百餘里 土地山險 多深林 道路如禽鹿徑
有千餘戸 無良田 食海物自活 乗船南北市糴
又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗 副曰卑奴母離
方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴又渡一海千餘里 至末廬國 有四千餘戸 濱山海居
草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺 皆沈没取之
東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚
有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐
東南至奴國百里 官曰兕馬觚 副曰卑奴母離 有二萬餘戸
東行至不彌國百里 官曰多模 副曰卑奴母離 有千餘家南至投馬國 水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬餘戸
邪馬台国の周辺環境 (抜粋)
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
次有斯馬國 次有已百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有爲吾國 次有鬼奴國
次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國
此女王境界所盡其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
自郡至女王國 萬二千餘里計其道里 當在會稽東冶之東
出真珠青玉 其山有丹
卑弥呼が君臨する女王国(抜粋)
其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年
乃共立一女子為王 名日卑彌呼 事鬼道能惑衆
年已長大 無夫壻 有男弟佐治國女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種
又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里
又有裸國 黒齒國 復在其東南 船行一年可至
参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里
「魏志倭人伝」の和訳
邪馬台国とは
倭人は帯方の東南、大海の中に在り、山や島によって国や村を為す。もとは百余国。
漢の時、朝見する者有り。今、使訳が通ってくる所は三十国。
邪馬台国への渡航ルート
郡より倭に至るには、海岸に沿って水行し、韓国を歴て、しばらく南に、しばらく東に進み、
その北岸の狗邪韓国に到る。七千余里。初めて一つの海を渡り、千余里にして対馬国に至る。その大官は卑狗といい、副は卑奴母離という。
居する所は絶島、広さは四百余里ほど。土地は山が険しく深林多し。道は禽鹿が通る径の如し。
千余戸有り。良田が無く、海産物を食して自活し、船に乗って南北から穀物を買っている。
また、南に一海を渡ること千余里、名は瀚海といい、一大国に至る。官もまた卑狗といい、
副は卑奴母離という。
広さはおよそ三百里四方。竹、木、草むら、林多し。三千ばかりの家有り。少々田地有り。
田を耕すも食糧が不足し、対馬と同じく南北から穀物を買っている。また、一海を渡ること千余里、末盧国に至る。四千余戸有り。山海に沿って居す。
草木茂り盛えて行くに前人を見ず。魚や鰒を捕るのを好み、水の深浅に関係なく、皆潜ってこれを取る。
東南に陸行すること五百里にして伊都国に到る。官は爾支といい、副は泄謨觚、柄渠觚という。
千余戸有り。世々王有りて、皆、女王国に統属す。郡使が往来し常に駐する所なり。
東南、奴国に至ると百里。官は兕馬觚といい、副は卑奴母離という。二万余戸有り。
東に行き、不弥国に至ると百里。官は多摸といい、副は卑奴母離という。千余家有り。南して投馬国に至る。水行二十日。官は弥弥といい、副は弥弥那利という。五万余戸。
南して邪馬壱国に至る。女王の都とする所なり。水行十日、陸行一月。
官は伊支馬有り。次は弥馬升といい、次は弥馬獲支といい、次は奴佳鞮という。七万余戸ばかり。
邪馬台国の周辺環境 (抜粋)
女王国より以北は、その戸数、道里の略載を得べきも、その他周囲の国は遠くして絶へ、詳細は得れず。
次に斯馬国有り。次に巳百支国有り。次に伊邪国有り。次都支国有り。次に弥奴国有り。
次に好古都国有り。次に不呼国有り。次に姐奴国有り。次に対蘇国有り。次に蘇奴国有り。
次に呼邑国有り。次に華奴蘇奴国有り。次に鬼国有り。次に為吾国有り。次に鬼奴国有り。
次に邪馬国有り。次に躬臣国有り。次に巴利国有り。次に支惟国有り。次に烏奴国有り。次に奴国有り。
ここは女王の境界の尽きる所なり。その南に狗奴国有り。男子が王と為る。その官は狗古智卑狗有り。女王に属さず。
郡より女王国に至るは、一万二千余里なり。その道里を計ると、まさに会稽東治の東にある。
真珠と青玉を出す。その山に丹がある。
卑弥呼が君臨する女王国(抜粋)
その国、本はまた男子を以って王と為す。住みて7~80年で倭国は乱れ、相攻伐して年を歴る。
そこで一女子を共に立て、王と為す。名は卑弥呼という。鬼道を行い、大衆を惑わす。
年をとり、夫は無い。男弟が国を治めるのを助ける。
女王国の東、海を渡ること千余里にして、また国有り。みな倭の種なり。
また、侏儒国有り、その南に在る。人の長は三、四尺。女王を去ること四千余里。
また裸国、黒歯国あり。またその東南に在り。船行一年で至る。
倭の地を参問するに絶えて海中の洲島の上に在り。或いは絶へ或いは連なり、周旋およそ五千余里なり。






