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2024/02/29

美しき霊峰筑波山の魅力 古代の英知が随所に秘められた由緒ある名山

筑波山を遠くから望む

日本百名山の筑波山

茨城県つくば市近郊に聳え立つ標高877mの筑波山。その頂上は男体山と女体山とに分かれ、筑波山神社の境内地としても知られています。山頂付近には双峰とともに、斑れい岩からなる巨石や奇石が散見され、山の中腹には多くの花崗岩が見られます。その特筆すべき地勢故に2016年、筑波山一帯は「筑波山地域ジオパーク」に認定されました。

筑波山地域ジオパーク
筑波山地域ジオパーク
筑波山は日本百名山のひとつとしても名を連ねています。その標高は百名山の中で最も低いとはいえ、関東平野から眺めることができる名山であり、朝夕に山肌の色を変える山として「紫峰(しほう)」の名でも知られています。だからこそ、「西に富士、東に筑波」と古くから称され、富士山と対比されるようになったのでしょう。よって古来より筑波山には人々が集い、神を祀り、時には歌い踊り、豊穣を大勢で祝う行事が行われてきたのです。筑波山こそ、日本百名山にランクインされるにふさわしい霊峰です。

庶民から愛される筑波山

広大な関東平野の北方、霞ケ浦から見て北西に位置する筑波山と成田との距離は50㎞少々あります。その先も平坦な地勢しかないため、天気が良く空気が澄み切った日には、関東各地から筑波山の姿をそのままくっきりと眺めることができます。最近では旧つくば鉄道の跡を活用した、全長約180kmのサイクリングコース 「つくば霞ヶ浦りんりんロード」と命名されたサイクリング・ロードが注目を浴びています。土浦駅から筑波山近郊までおよそ20㎞の距離を、筑波山を眺めながら自転車で走ることができることから、家族連れや若者にも人気です。

筑波山頂からの景色
筑波山頂からの景色
筑波山頂上からの広大なパノラマビューも格別です。筑波山からは150㎞も離れた富士山を眺めることができます。「日本夜景遺産」にも選出されており、条件が良ければ富士山が夜景に浮かぶ光景や、関東平野の夜景を満喫することができます。また、頂上からは伊豆諸島大島の三原山を見渡し、その西方には甲武信ケ岳と金峰山、北西には榛名山、北側には那須岳を、そして南西方向には鹿島神宮の聖地を望みます。

筑波山は美しい樹木と花に包まれていることでも有名です。春には筑波山梅まつりが開催され、山の中腹には無数の白梅と紅梅が咲き誇ります。初夏は紫色の花で知られるカタクリが山頂周辺を包み、夏にかけてはアジサイやツツジなども華麗な花弁の色彩をもって山を装飾します。そして秋になると、筑波山周辺一帯は紅葉に恵まれます。

誰もが登山を楽しめる筑波山

筑波山神社の境内石段
筑波山神社の境内石段
男体山、女体山とも頂上には神社があり、神社の境内そばからは、山の頂上に向けて全長1634mのケーブルカーが高低差およそ500mを行き来しています。ケーブルカーは筑波山の男体山(標高871m)頂上付近を終点としています。その東側には男体山よりも標高が6m高い女体山(標高877m)があり、山の東側からはロープウェイが1.3㎞の距離を行き来しながら、高低差300mを上り詰めています。日本百名山の中でも、ロープウェイとケーブルカー双方によって頂上まで行くことのできる山は例がなく、誰でも頂上神社を参拝することができるというハードルの低さも、筑波山人気の要因と言えそうです。

筑波山登山コース
筑波山登山コース

豪快な岩場が連なる筑波山白雲橋コース
豪快な岩場が連なる筑波山白雲橋コース
筑波山の頂上へは、ケーブルカーやロープウェイによってアクセスできるだけでなく、初心者から上級者まで楽しめる各種登山コースが整備されています。筑波山神社からはケーブルカー沿いの山道となる「御幸ヶ原コース」が男体山頂上付近近く御幸ヶ原までつながり、女体山に向けては「白雲橋コース」が存在します。また、山の東方にあるロープウェイの始点からは女体山頂上に向けて「おたつ石コース」と呼ばれるコースも整備されています。その他、男体山近くの御幸ヶ原と女体山頂を結ぶ短い山道もあり、さらには筑波山頂駅の御幸ヶ原からは男体山頂上周辺をぐるりと一周できる自然研究路と呼ばれる山道が整備され、磐座や植物を観察できるようになっています。これらの山道はいずれもきれいに整備され、比較的穏やかな斜面が連なっていることから、登山の初心者にもおすすめできるのが筑波山の魅力です。

筑波山は「岩の博物館」

親鸞聖人も愛された筑波山立身石
親鸞聖人も愛された筑波山立身石
筑波山はパワースポットとしても有名です。山全体が筑波山神社の御神体となっているだけでなく、頂上から山腹の至る所に磐座があり、古くから人々が神を祀っていた痕跡を今日でも見ることができます。最も注目したいのは、男体山頂上近くにある立身石です。自然研究路沿いにあり、山道の入口がわかりづらいことから訪れる人はまばらですが、これこそ、筑波山が誇る最大のパワースポットです。この場所で親鸞が念仏を唱えて餓鬼救済を実現したという言い伝えがあるだけでなく、間宮林蔵が武士として身を立てる誓いをした場所であることから、立身石と言われるようになりました。その岩の見事な形状は、正に磐座と呼ばれるのにふさわしく、その頂点からは筑波山からの西方を一望できます。また、この自然研究路沿いには、大石重ねと名付けられた場所もあります。筑波山神社で清められた小石に願い事を書き、この場所に置くことにより成就すると言われています。

小石を投げて幸運をつかむ筑波山ガマ石
小石を投げて幸運をつかむ筑波山ガマ石
男体山そばの御幸ヶ原と女体山を結ぶ山道の途中には「ガマ石」があります。一見、ガマガエルのように見える岩の合間がカエルの口のように見え、そこに小石を投げて岩の上にうまくのると、金運などの御利益があると伝えられています。

女体山の頂上から下る山道、白雲橋コース沿いにも多くの巨石が連なり、その多くが奇石、磐座として人々から崇められています。頂上から山道を下りていくと、まず、横から見ると大仏様のように見える「大仏岩」に出会います。そして安座常神社で祀られている「屏風岩」、天に聳え立つ「北斗岩」と続き、その後、「裏面大黒」「出船入船」「陰陽石」と呼ばれる巨石が連なります。また、巨大な岩の下にぽっかりと空間のある岩場もあり、「母の胎内くぐり」と命名されています。さらに巨石の合間に石段がある「高天原」と呼ばれる岩場もあり、そこには参拝する神殿も設けられています。これら一連の巨石群の最後には、「弁慶七戻り」と呼ばれ、巨石が山道沿いの石の真上にのっている光景が目に入ります。今にも落ちそうな巨石を見て、あの弁慶さえも7回、右往左往したのでしょうか。

それにしても豪快な岩場の連続に感動を覚えないわけにはいきません。パワースポットなる磐座の連続に、きっと誰もが山道を楽しんで下りてくることでしょう。これぞ、筑波山が「岩の博物館」と呼ばれる所以です。そして最後に筑波山神社の境内まで戻ってくると、そこには大杉が存在します。樹齢800年とも言われ、幹の円周は約10m、高さは32mにもおよびます。筑波山神社の御神木として、今日まで大切にされています。

筑波山神社の由緒と重要性

筑波山神社
筑波山神社
筑波山神社は筑波山を御神体なる霊峰として仰ぎ、その歴史は日本の国生みの時代まで遡ります。筑波山神社の御祭神は日本書紀や古事記に記されている国生みの神である伊弉諾尊(筑波男大神いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(筑波女大神いざなみのみこと)です。二神が結ばれて神々を生み、それが国生みにつながったことから、夫婦和合や縁結びをはじめとし家内安全、国家の安泰に至るまでの御神徳を筑波神から受けるため、今日でも多くの人々が参拝に訪れます。年中行事の中には稲作文化を中心とする農耕文化と国家の安泰、そして豊穣を祀る祈年祭が例年2月に催され、皇霊殿遥拝式や新嘗祭(にいなめさい)、大祓の行事などが古くから執り行われています。また、皇族の参拝もあることから、皇室との深いつながりを察することができます。

筑波山は古くから国内屈指の霊峰としてその存在は語り継がれており、万葉集にも「神代より人の言い継ぎ」との記述が見られます。また、古代より国生みの神である伊弉諾尊と伊弉冉尊の二神が御祭神として祀られているということは、筑波山神社の創建に、この二神が絡んでいたことによるものでしょう。

由緒の沿革によると、国生みの時代、大八洲国(本州)が見出された際、二神はその「東方霊位に当る海中に筑波山を造り得て降臨」されました。つまり島々を船で回りながら、指標となる山々を海辺から望んでいる際、筑波山がひときわ目に浮かび、そこを古代の拠点と定めたのです。そして山頂が2つに分かれることから、男女二柱の神々が男体山、女体山の本殿それぞれにおいて崇められるようになり、その麓には拝殿も造られました。こうして創始者である「いざなぎ、いざなみ両神」が筑波神となったのです。

古代より歌に詠まれた神聖な山

筑波山は古代より重要な位置づけを占め、歴史に名を遺す多くの皇族や豪族が筑波山に立ち寄り、そこで先代の神々を拝しました。そして神武天皇の時代、筑波山神社の男体女体両宮が創祀されることとなります。その後、紀元前1世紀、元伊勢の御巡幸が始まろうとする直前の時代では、日本の古代宗教に多大なる影響を与えた物部一族が筑波山の重要性に着眼し、そこで社を改めて造営し、管轄することとなりました。由緒によると第10代崇神天皇の時代、物部一族の筑波命が筑波国造となり、それ以降、大化の改新に至るまで、筑波一族が筑波山神社の政を取り仕切るようになります。

筑波山神社の本殿へ至る参道
筑波山神社の本殿へ至る参道
当時、倭国の内政は乱れ、海外からの侵略のうわさも絶えず、神宝を外敵から守ることが急務とされた時代です。第12代景行天皇の御代、倭姫命から神宝を託されて征伐に出向いた武人である日本武尊は、東征の途中で筑波に立ち寄ったことが古事記に記されています。日本武尊が筑波山に足を運ぶこと自体が、何かしら筑波が重要な位置づけにあったことに違いありません。そして東征からの帰路にて日本武尊は、「新治(にひばり)筑波をすぎて幾夜か寝つる」と歌を詠まれたのに対し、火ともしの翁が歌で応えたことが連歌の起こりとなり、そのやりとりが「つくばの道」という連歌として、後世にその名を残すことになります。

大勢の参拝者が訪れる筑波山神社
大勢の参拝者が訪れる筑波山神社
また、「常陸風土記」には筑波神と祖神尊に纏わる話や、多くの人々が筑波神の元を訪れたことが記載されています。そしていつしか筑波山にまつわる歌も詠まれるようになりました。それらが万葉集や古今和歌集の名歌としても知られるようになったのです。奈良時代、万葉集には筑波山の魅力が筑波の歌二十五首として記載され、常陸国生粋の霊山としてその名を世間に知らしめるようになります。そして後醍醐天皇の時代では、古今和歌集に「さざれ石にたとへ筑波山にかけて」と詠まれ、筑波山が皇族の誉大を象徴する霊山として、篤く崇敬されていたことを偲ばせています。筑波山は、古代より神聖な山として知られていたのです。

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