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2026/06/14

語り継がれる空海伝説 平仮名と「いろは歌」を創作したのは空海か?

平仮名が考案された背景

平安時代の日本社会では、日本語を話すものの、文字を読み書きできる人々はごく限られていました。また、漢字の習得には多大な時間と労力を要したため、民衆の間で漢文を普及させることには限界がありました。一方で、学識と文才を兼ね備えた知識人や、高い教養を持つ女性も少なくなかったことから、日本語を綴りたいという願いは絶えることがありませんでした。

そのような社会的背景のもと、平安時代の初期には、漢字を日常的に用いていた識者らによって平仮名が成立したとされています。平仮名は女性的な文字という印象が強いため、宮中に仕えていた女房たちによって創案されたとする説もありますが、定かではありません。平仮名は、大陸から伝来した漢字を書き崩し簡略化する過程で成立したと言われています。そして使い続けるうちに、やがて日本語を自然に表現できる平仮名の利便性と流麗な美しさが広く認められるようになり、次第に知識人の間で普及していきました。

現在の学術的な見解によると、平仮名は特定の人物が創案した文字ではなく、万葉仮名の草書体が長い年月をかけて変化し、自然に成立した文字と考えられています。一方で、平仮名が誕生した背景を振り返ると、その創案者として古くから名前が挙がる人物がいます。それが偉大な宗教家として知られる空海です。民間では古くから、空海を平仮名の創案者とする伝承が語り継がれてきました。なぜ、古代の人々は、空海を平仮名と結びつけたのでしょうか。本稿では、こうした伝承を踏まえながら、平仮名が成立した背景に迫ります。

空海が学んだ思想の背景

空海は奈良時代後期から平安時代初期に活躍した僧侶であり、遣唐使として唐へ渡り、アジア大陸における最先端の学問や宗教を修めました。当時の都・長安は仏教だけでなく、道教やゾロアスター教、さらにキリスト教の一派であるネストリウス派(景教)など、多様な東西の宗教や思想が共存する国際都市でした。とりわけキリスト教の一派であるネストリウス派の景教は広く伝えられ、長安には「大秦寺」と呼ばれた景教寺院も建立されていました。そのため、長安で学んだ空海は、景教をはじめとする西アジア系の宗教文化や思想などに接する機会があったとも考えられます。また、語学に卓越した才能を持っていた空海であれば、こうした背景から旧約聖書の原典で用いられているヘブライ語などの言語に関心を寄せていた可能性もあるでしょう。

帰国後、空海は朝廷の保護を受けながら、平安時代を代表する宗教家として人々の精神的な救済と文化の発展に尽力し、優れた能書家としても知られ、皇室に仕えながら活躍しました。また、高野山を開山し、真言密教の根本道場を築いたことでも広く知られています。さらに、空海が執筆した「声字実相義(しょうじじっそうぎ)」では、「声」「字」「実相」は本来ひとつであると説かれています。この思想については、キリスト教に準じた景教の聖典である新約聖書の「言は神」という教理との類似性が指摘されることもあります。

平仮名と「いろは歌」の作者は空海か

これらの歴史的背景を踏まえると、平仮名を創案した「マスターマインド」に該当する存在がいたとすれば、日本の歴史上、その候補として思い浮かぶのは空海、弘法大師ではないでしょうか。遣唐使としてアジア大陸に渡った空海は優れた思想家であり、言葉や文字に深い造詣を持っていた能書家として名声を博していました。また、中国大陸で景教にも接し、その教えや聖書に触れたともみられ、さらに阿刀氏系の学者を輩出した家系の出身であることを踏まえると、ヘブライ語や古アラム語、パルミラ語の文字も理解していた可能性があります。こうした背景を踏まえると、空海は平仮名を成立するに必要となるさまざまな文字形に関する知識を持っていたと見ることもできるでしょう。

また、空海が平仮名の成立に深く関与し、さらには「いろは歌」を作ったという説も、古くから語り継がれてきました。平仮名から構成された字母歌である「いろは歌」は、平仮名の作者に結び付けて考えられてきたからではないでしょうか。そして空海が平仮名を創案したとする伝承をもとに、いつしか「いろは歌」も空海の作として語り継がれるようになります。もし、空海の精神的ルーツが阿刀氏の系譜を通じて古代イスラエルや聖書の教えに遡るとするならば、平仮名を「いろは歌」としてまとめ、そこに折句を用いて信仰的なメッセージを巧みに織り込ませることができた理由が見えてくるようです。空海が平仮名を創案したことを直接裏付ける史料はなくとも、「いろは歌」に込められた折句が作者の姿を解明する手掛かりとなるのかもしれません。

現在の学説では、平仮名の成立は9世紀頃、すなわち空海が活躍した時代の前後と位置付けられています。そして、平仮名は空海という一人の天才により創案されたものではなく、多くの知識人や文人たちの創意工夫が積み重ねられる中で形づくられた日本独自の文字というのが通説となっています。そして一般的には、平安時代初期に万葉仮名の草書体が発展する過程で、漢字が徐々に簡略化されて仮名として用いられるようになり、時間をかけて文字が整えられていったと理解されています。

古代の人々が空海説を信じた理由

空海が平仮名の創案者であったことを示す確かな史料は、現在のところ確認されていません。しかし、平仮名が成立したとされる平安時代において、書道をはじめ、音韻や言語など、幅広い分野で卓越した才能を発揮した人物が空海であったことも事実です。それゆえ、当時の人々にとって、平仮名や「いろは歌」のような高度な文字文化を生み出せる人物として、空海ほど相応しい存在はいなかったのでしょう。こうしたことから、空海を平仮名の創案者とする説が生まれ、その説が後世まで語り継がれるようになったものと考えられます。その理由としては、主として次の3点が挙げられます。

1.空海は偉大な能書家として知られ、平安時代より日本の「三筆」の一人として、名声を博していました。文字の成り立ちや筆法を熟知し、達筆で、その美しさや表現力を深く理解していた優れた書家であったことから、平仮名のような独創的かつ、流麗な文字を創案し得る人物として、古くから空海の名が語られるようになりました。

2.平仮名47文字を重複なく用いて構成された「いろは歌」は、「色は匂へど散りぬるを」で始まる美しい字母歌です。すべての仮名を一度ずつ用いながら、優れた歌を創作するには高度な語学力と詩才が必要であり、そのような卓越した作品を創作できる詩人として、当時の人々は「いろは歌」の作者を空海と結びつけるようになったのではないでしょうか。

3.空海は日本語のみならず梵語や中国語にも精通した語学の達人であり、言葉や文字の本質について深い関心を持ち、研究に取り組んでいました。そのため、日本語を表現するに相応しい日本独自の文字体系に深い関心を抱き、複雑な漢字や万葉仮名とは異なる新たな表記方法の創案に関わったと考えられるようになったのでしょう。

空海説の真相

1.空海は平安時代最高峰の書家

空海が生まれたのは774年であり、平安時代の初期、835年に亡くなっています。その生涯は、平仮名が成立したと考えられる9世紀前半と重なっています。つまり、空海が生きた時代は、平仮名が形造られた時期とほぼ一致しているのです。しかし、空海が平仮名を創案したことを直接裏付ける同時代の史料は現在のところ確認されておらず、歴史学においては伝承のひとつと位置付けられています。一方で、平仮名の成り立ちや「いろは歌」に込められている折句を検証していくと、古代からの伝承に、何らかの史実が反映されている可能性もあるのではないでしょうか。

まず注目すべきは、空海が平安時代を代表する能書家であり、卓越した語学者であったことです。平仮名は漢字の草書体をもとに簡略化することで成立しているため、その創案の背景には漢字や草書に対する深い知識だけでなく、高度な書の技術も必要であったと考えられます。空海は「三筆」の一人として、嵯峨天皇と並び称される平安時代屈指の能書家でした。また、漢字だけでなく、草書や梵字にも精通し、文字の成り立ちや表現方法について幅広い知識を誰よりも備えていた人物として知られています。それゆえ、漢字をもとに新たな表音文字を構想し得る人物として、空海の名が挙げられるのも不思議ではありません。

さらに、漢字習得の困難さを熟知していた空海は、漢字だけでは日本語を十分に表現するには限界があると感じ、中国から伝来した漢字だけに頼らず、日本固有の文字体系の必要性を意識していたのではないでしょうか。難しい漢字を学ばなくても、表音文字だけで誰もが日本語を自在に読み書きできる文字体系を構想していたとしても不思議ではありません。そして日本語の発音に基づいて誰もが文章を読み書きできる文字体系を構想し得る人物として空海が認識されていたことから、平仮名が日本独自の文字として発展していく出発点を空海に求める考えが生まれ、その伝承が後世へ語り継がれてきたのではないでしょうか。 

2.空海が目覚めた言霊思想

阿刀氏の出身である空海は、幼少期を四国の香川で過ごし、奈良で活躍した著名な僧侶らを親族に持つなど、多くの経典を学ぶ機会に恵まれていました。青年期には伯父を通して皇族との繋がりも深まり、804年には遣唐使の一員として唐へ渡ります。唐の都・長安では梵字や音韻学を学んだだけでなく、師として仰ぐ恵果和尚のもとで、長安(現在の西安)でも広まっていたキリスト教の一派であるネストリウス派の景教に接し、その教えや聖典に触れる機会があった可能性も否定できません。こうした経験を通して空海は、言葉や文字は単なる意思疎通の手段ではなく、宇宙の真理そのものを表しているという独自の思想へと至ったものと考えられます。

言葉と音が持つ本質的な意味を重視した空海の思想は、「声字実相義(しょうじじっそうぎ)」に見ることができます。そこでは、「声(音)」、「字(文字)」、「実相(真理)」は本来一体であり、言葉そのものが真理を表すことが説かれています。つまり、空海にとって、言葉は生命や真理と深く結びついた神聖な存在であり、その音や文字には特別な意味が宿ると考えていたのでしょう。この思想は、景教の聖典として中国大陸でも読まれていた新約聖書のヨハネ福音書にある「言は神であった」「この言に命があった」という理念を想起させます。両者を直接結び付ける史料は確認されていませんが、言葉を宇宙の根源や真理と結び付ける点には思想的な共通性があり、聖句にも繋がる教えであることから、この思想は真言密教の思想とも深く響きあっているかもしれません。

例えば、「あ」という平仮名の最初の文字に対応する梵字の「阿」は、その音に宇宙の根源や創造に関わる意味が宿ると空海は重視したのでしょうか。その思想の根底には、新約聖書の黙示録において神が、「わたしはアルファであり、オメガである」と語ったと伝えられ、最初の文字に宇宙の根源や神聖な意味が託されていることに原点があるかもしれません。そして、空海は言葉の音そのものに真理が宿るとして、真言や梵字、そして音写を重要視しました。このような思想を踏まえると、空海が音を文字化し、日本語に相応しい文字体系の構想に思いを巡らせていたとしても不思議ではありません。

3.空海と景教(キリスト教)との出会い

空海が遣唐使として唐に渡った際、長安で触れた可能性のある景教の教えとは、空海にとって小さい頃から学んできた中国大陸由来の思想や文化と重なる部分があったかもしれません。というのも、空海の母は渡来系のルーツを持つ阿刀氏の出身であり、叔父の阿刀大足からは儒教や漢学などの高度な教育を日頃学んだと伝えられているからです。

また、空海は若い頃から伯父を通して皇族との繋がりを持ち、都の造成に手腕を振るった秦氏とも接する機会があったとも考えられます。秦氏は自らを秦の始皇帝の末裔と称する一方、その出自については諸説あり、その中にはイスラエル系のユダヤとの関連を指摘する説もあります。さまざまな言語の習得は、言語学に卓越した才能を持っていた空海にとって決して困難ではなく、景教の聖典である聖書についても、ヘブライ語をはじめとする原典の言語に触れていた可能性もあるでしょう。

そして、「言は神であった」「この言に命があった」という聖書の言語観に空海が共鳴していたとするならば、人々の心を潤し、生きる力を与える言葉を広く伝えたいと願ったとも十分に理解できます。そのため、「命の言葉」をより多くの人々に届けるために、新たな文字体系の必要性を強く意識したとしても不思議ではありません。そうした思いから、「魂が宿る言葉」をできるだけ短期間に広く普及させるため、誰もが容易に読み書きできる文字体系の構想を抱いたのではないでしょうか。こうした理念が、後に空海が平仮名の成立に関与したとする伝承を生み出したのかもしれません。

平仮名は、難しい漢字を十分に習得していなくても、日本語の発音に基づいて誰もが文章を読み書きできることを目指して創案された日本独自の表音文字です。その成立は、片仮名とともに用いることができる新たな文字体系の誕生を意味していました。もし空海が平仮名の成立に深く関わり、さらに平仮名47音を「いろは歌」にまとめたと仮定するならば、平仮名の創案から「いろは歌」の創作までの流れが、空海という存在を中心に一連のものとして理解することができ、空海説も一定の説得力を持つように思えます。

「いろは歌」に隠された空海の思い

平仮名の考案者が空海という説の根拠のひとつとして挙げられるのが、「いろは歌」の存在です。平仮名だけでなく、古くから「いろは歌」についても、空海が作者ではないかという伝承が語り継がれてきました。その背景には、「いろは歌」ほど美しく巧みに構成された字母歌を創作できる人物は、日本を代表する能書家であり、優れた学識と詩才を兼ね備えた空海こそ最も相応しいと考えられてきたことがあるのではないでしょうか。

「いろは歌」の最大の特徴は、平仮名47文字を一字ずつ重複なく用いながら、美しい七五調の韻律を備えた一首の歌として見事に完成されていることです。

いろはにほへと(7)
ちりぬるを(5)
わかよたれそ(7)
つねならむ(5)
うゐのおくやま(7)
けふこえて(5)
あさきゆめみし(7)
ゑひもせす(5)

このように「いろは歌」は、表面上、七五調の韻律に整えられた完成度の高い歌になっています。しかし、平安時代の和歌は五七五七七調を基本としていたため、「いろは歌」が七五調であることに疑問を呈して、その成立年代が平安時代よりも後でないかと指摘する見解もあります。

ところが、「いろは歌」は別の視点から読み解くこともできます。歌詞を五文字ずつ区切り、五x五のマス目に配置すると、表面の七五調とは異なる構造が見えてきます。そこには五七五七七調として読むことのできる歌も隠されているようにも見受けられます。さらに、このマス目を、横読み、斜め読み、縦読み、角読み、あるいは飛び石読みすると、そこに秘められている暗号文のような別の歌が現れてきます。「いろは歌」を五七五七七調で読み解くと、次のような歌詞になります。

いちよらや あゑさけゐつわ
とかなくて しすみこゐれり
いはほとなて

この歌詞の意味は、「いろは歌」の作者の背景を探るうえで、極めて重要な手掛かりとなるかもしれません。なぜなら、その内容には、キリスト教の教理を想起させる表現や思想が数多く読み取れるからです。歌詞を読み進めると、あたかもキリスト教の根本的な教えを理解していた人物によって綴られたかのような印象を受けます。

その核心は、「咎なくて死す」という一節です。これは、聖書に記されている罪のないまま十字架に架けられたイエス・キリストの生涯を連想させる言葉として読むことができます。さらに、「いろは歌」の作者は巧みな折句を用いて、「咎なくて死す」お方が「御子」であることを示唆しているようにも受け取れます。すなわち、大切な御子が、何の罪もないのに死に至ったと伝えているように読めるのではないでしょうか。その「御子」は、「入りて葬られる」と続き、最後には「巌となって」現れることが示されているようです。罪なくして死なれた御子が葬られた後、巌という新たな姿となって現れたことを、暗示しているのかもしれません。

さらに五x五のマス目に入った歌詞を角読み、横読み、縦読みすると、「いえす」、「やあえ」、「モセス」という語が浮かび上がります。「いえす」はイエス・キリスト、「やあえ」は旧約聖書に記載されている神の御名、そして「モセス」はイスラエルの民をエジプトから導き出した偉大な預言者を思い起こさせます。この3つの象徴的な名が「いろは歌」の歌詞に込められていることは興味深く、作者が念入りに人物名や神の御名を折句として織り込んだ可能性を示唆しているようです。

「いろは歌」から浮かび平仮名の創案者

このような聖書の記述を想起させる内容が「いろは歌」の中に織り込まれているとするならば、その人物は誰でしょうか。その有力な候補の一人として挙げられるのが、空海です。 空海は、平安時代初期、遣唐使として唐に渡り、長安で景教文化に接した可能性があり、かつ優れた語学力と書の才能を兼ね備えていました。もし、空海が景教の教えに触れ、イエス・キリストについて学んでいたとするならば、自ら「いろは歌」を創作し、その中に折句として信仰的なメッセージを込めたことも考えられるのではないでしょうか。さらに、「いろは歌」を五x五のマス目に配置すると、その四隅の文字は「い」「え」「す」になっていることは注目に値します。この配列が作者によって意図されたものであるならば、「いえす」を象徴的に示す巧妙な仕掛けだったのかもしれません。

「いろは歌」の作者が空海であったという前提に立つならば、「いろは歌」は47音の平仮名すべてを網羅した字母歌であることは極めて重要な意味を持つことになります。なぜなら、それは平仮名の成立にも空海が関与していたことを示唆するひとつの手掛かりとなり得るからです。さらに、「いろは歌」が景教の影響を受けた空海の作品であるとすれば、平仮名の字形にもヘブライ文字との体系的な関係が見出されたとしても不自然ではないかもしれません。そうした視点に立てば、空海が唐で接した異文化の知識を、日本独自の文字体系の創出に応用しようとした可能性も見えてきます。

今後、「いろは歌」には景教的思想が込められていること、さらに平仮名とヘブライ文字の字形との間に体系的な対応関係が立証されるならば、平仮名の創案者が空海であったという説は単なる伝説ではなく、史実を反映した伝承としてあらためて学術的な検討の対象となるかもしれません。

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