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2026/09/17

空海の知られざる7年間 空海をとりまく政治と宗教環境を振り返る

怨霊対策の渦中で姿を消した空海

794年に平安京遷都が実現しました。しかし、あらゆる怨霊対策がとられたにも関わらず、問題は解決せず、依然として桓武天皇を悩ませ続けていました。そして、既に悟りを開いていた空海は、遷都が実現した直後より、南都六宗の本拠地である奈良で2年間、学びを深める一方で、国家の安泰を願い、国の行く末や怨霊の問題について思いを巡らせていたのではないでしょうか。都の行く末についても深い関心を抱いていただけに、朝廷の周辺に不幸と災難が連続して起きていることは、由々しき事態だったのです。

そのような状況の中、797年、当時23歳の空海は、御仏より「久米に行くべし」との啓示を受けたと伝えられています。その言葉に従って東塔を訪ねてみると、そこで思いがけず、インド密教をルーツに持つ「大日経」の経典七巻を発見します。その経典には、仏と我が一体となる即身成仏に至る悟りの教理が記されていました。大勢の庶民を救い導き、怨霊の祟りから天皇をはじめ多くの人々を解放することを天命とした空海にとって、まさに「生命の宗教」の基となるべき経典を手にした瞬間だったのです。空海はその密教の経典に触れ、「聾瞽指帰」を書き下ろした直後、何故か歴史から忽然と姿を消してしまいます。そして804年、遣唐使として中国に渡るまでの7年間、消息がわからなくなりました。

その間、空海がどのように過ごしていたのかは、今なお大きな謎として残されています。その空白の期間については空海の伝記にも一切記載がないため、多くの大師伝でも詳しい足取りが記されていない「知られざる7年間」とされています。また、この期間について説明がなされる場合も、大日経の経典を入手した後、その習得のために再び山奥にこもったとか、もしくは日本国内を旅しながら、遣唐使として入唐する準備をするために学問や語学に専念していたと推測されるに過ぎないでしょう。果たして、空海はどこで何をしていたのでしょうか。

唐に渡るための資金作りか?

一説によると、空海の身分は低かったことから、唐に渡るための自己資金を蓄える必要があったと言われています。それゆえ、多くの苦労を重ねて各地を旅しながらお布施を募り、また、帰国した僧侶からも話を聞いて学んだであろうと考えられています。つまり、一介の新米僧侶として、入唐するための経済的な準備に励んでいたという説なのですが、果たしてそうでしょうか。

疑問点は、まず、貧しいと言われた空海が、実は多額の金銭を携えて入唐していることです。空海は、当初予定されていた20年にわたる滞在期間に必要な資金を十分に携えていたうえに、自らが欲する書籍は何でも手に入れることができたほど、ゆとりがあったようです。実際、経典四百六十巻や両界曼荼羅だけでなく、数々の仏画まで買い求め、そのコレクションの質の高さが最澄の耳に入り、帰国後、最澄の申し入れに応じて「華厳経」などを貸し出しています。無論、恵果和尚からも多くの書籍や秘宝を譲り受けています。留学が短期間に終了する見通しが立ったことから余剰資金が生まれたという見方もできますが、いずれにしても貧しい留学生の行動とは考えにくいでしょう。

20歳にして室戸岬で求聞持法を成就し、悟りを開いた後、山岳宗教の行者となって、平安京の行く末にも深い関心を抱いていたはずの空海だけに、平安京遷都に関わる怨霊問題が公然と語られていた国家の一大事であることを知りながら、お布施集めのために国内を行脚するという、自らの利得のための行動をとるとは考えにくいのではないでしょうか。しかも空海ほどの人物ですから、国内を旅したならば、何らかの足跡が各地に残されていても不思議ではありません。しかし、7年間にわたり、空海に関する情報がほとんど残されていないのです。

また、消息を絶つ直前の797年に空海があらわした「三教指帰」に、空海が大学を離れて山や難所で修行を積んだと書かれていることから、さらなる修行だけに長い年月を費やしたとは捉えにくく、大日経を学ぶにしても、空海の学識や理解力を考えれば7年という期間はあまりに長すぎます。

空海は朝廷に召されたか?

国家を守護し、天皇に寄り添い、怨霊対策の結果を出すことを願っていた空海だけに、空白の7年の間、何らかの形で朝廷と個人的な繋がりを持っていた可能性があります。母方の叔父にあたる阿刀大足は桓武天皇の皇子の家庭教師であったことから、空海自身も15歳の時から論語や史伝などを学ぶ機会に恵まれ、皇室との接点を持つことができました。また、空海は平安京の遷都における立役者であった和気清麻呂とも面識があり、日本の地理と聖地の見極め方、神宝の所在地などについてさまざまな知識を享受していたと推察されます。そのような経緯から、より一層、朝廷との関わりは深まったと考えられます。

また、遣唐使として唐に向かった804年、空海は通訳者を必要としないほど中国語を流暢に話すことができ、入唐前から渡来人とも積極的な関わりを持っていたと推測されます。よって、空海の人脈は中国大陸まで及ぶ幅広いものであったに違いありません。空海が遣唐使となった背景には、朝廷や秦氏からの働きかけや手厚い援助があったとみられるだけでなく、そこに至るまでの間、長年にわたり、朝廷との密かな関わりが続いていた可能性があります。

空海は、自身の持つ豊かな人脈を背景に多くの情報を得て、国家の問題点を見極めつつ、怨霊対策のために祈りを捧げたのでしょう。さらに、国家を守護する神宝の処遇についても責任をもって対応できる実力者として、桓武天皇に認められ、篤い信任を受けるようになったとみることもできます。空海の「空白の7年」は、朝廷とのつながりが深まっていく時期と重なると想定すると、それまで謎に包まれていた7年間の意味も、より明確になってきます。

神宝の調査を託された空海と阿刀氏の関係

ちょうどその当時、怨霊対策で躍起になっていた朝廷において、誰も対処できずに放置されている難しい問題がありました。それが、怨霊対策の切り札とも言える「神宝の移設」です。天皇と都を守護し、国家の安泰を実現するためには、新都に神宝を移設することが不可欠でしたが、当時、これを確信をもって実行できる者が不在でした。太古の時代から神宝の取り扱いや儀式は大変難しく、祭司でなければ関わることができなかったとされます。そればかりか、誰もが祟りを怖れるあまり、朝廷内でさえ神宝に触れることはおろか、見ることさえも避けられていたのです。

また、本物の神宝の収蔵場所がいつの間にかわからなくなっていたことが、そもそもの問題でした。古代から神宝のレプリカは多数存在し、盗難を防ぐ目的のためにも重宝されていました。本物がどこに収蔵されているのかを隠すことが当初の目的でしたが、いつしかその情報が歴史の中に埋もれてしまい、神宝の所在に関する真相がわからなくなってしまったのです。それでも平安京において神宝が宝蔵されることが強く望まれ、たとえそれがレプリカであったとしても、怨霊対策として不可欠と考えられました。それゆえ、本物の神宝の所在を突き止めることが急務であったのです。

空海の消息が途絶えたのが平安京の遷都直後ということもあり、朝廷が怨霊対策に取り組んでいる時期と重なることからみても、空海が姿を消した7年間は、何らかの形で神宝と関わっていた可能性が高いと考えられます。阿刀氏の家系から輩出された生粋の宗教家であったからこそ、空海にとって神宝が収蔵されている場所を確認し、それらを正しく祀ることに、大きな使命を感じていたとも考えられるのではないでしょうか。ましてや、空海の故郷、四国の剣山周辺にイスラエルの集落が存在し、そこにはソロモンの神宝が秘蔵されているという言い伝えが古くから残されていただけに、空海も神宝には深い関心を持っていた可能性があります。

さらに空海の母方である阿刀氏のルーツを遡っていくと、秦氏らとともに大陸系の渡来民族に繋がっていたことがうかがわれ、阿刀氏と呼ばれる一族そのものが、神宝の取り扱いと深く関わりを持っていたという歴史的背景も見えてきます。もしかすると、秦氏と同様に阿刀氏の出自も西アジアのイスラエルに由来するのかもしれません。こうした背景を踏まえると、阿刀氏の家系に生まれた宗教家であったからこそ、空海も神宝の取り扱いに関心を持っていただけでなく、実際に代々伝承されてきた言い伝えも含め、さまざまな知識を既に身に付けていたとも考えられます。こうして、空海はいつしか、神宝問題を解決するための第一人者として、天皇より信任を受けるようになったとも推察されます。

空海の知られざる7年の真相

これらの背景から、空海の知られざる7年間を解明するためには、単に空海の文献を検証するだけでなく、空海をとりまく政治と宗教の環境を見直すことが不可欠です。文化交流の裏に潜む権力闘争や、怨霊対策に取り組む宗教家らの働き、また知識階級の人脈と相互関係などにも目を留め、それらがどのように空海の生涯に影響を与えたかを探る必要があります。そのうえで、当時の凄まじい権力闘争と怨霊問題を肌で受け止めた空海が、自ら感じ取った天命をどう捉え、どのように行動したであろうかと考えていくことが求められます。

空海の行動とその足取りを追いながら、何が変わったのか、また、一貫して変わらない共通の考え方や行動パターンがあったのかを見極めることが重要です。また、平安初期の時代において、神宝を誰が、どのように管理していたのか、ということにも注視する必要があります。その過程で、空海と渡来人、特に阿刀氏との関わりや、秦氏の存在、そして和気清麻呂など、多くの識者が怨霊からの解放を願い、共に尽力していた時代の姿が浮かび上がってきます。

これらの政治や社会的な背景を踏まえ、空海はその対策の一環として、怨霊対策の鍵となる神宝の行方を追い求め、その再発見と宝蔵場所の再確認に全身全霊を注いだと考えられます。その結果、空海は自らの足で全国を行脚し、日本の霊峰や、神宝が祀られていると伝承される神社の数々を検証したことでしょう。その存在を確かめたうえで聖別し、正しく祀り、安全な場所への収蔵を目指したのではないでしょうか。

さらに注目すべきことに、再度山にて自らの手で彫った亀には、空海が7年間の活動を通して見出した真相にまつわる大切なメッセージを盛り込んだと推測されます。それゆえ、空海は再度山を2度も訪れ、時間をかけて思いを込めて、亀を彫ったのです。その思いを胸に、空海は遣唐使として中国へと向かいました。空海の失われた7年間の真相に迫る鍵は、再度山の亀に秘められているかもしれません。

画像ギャラリー:剣山 / 再度山

コメント
  1. 脇 斗志也 より:

    中島先生 アーク は剣山では無く「ドウメキ」塩塚高原の頂上の愛媛と徳島の県境部にあると思います。
    伊予之二名島の真ん中で 八十ハヶ所の結界の中心部です。

  2. 貴之 より:

    空海の過去世がインドの釈迦の時代のガランダ長者。

  3. 湯原正孝 より:

    空海はユダヤ人だという説はどこから見れば、。

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