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2024/04/22

日本八霊山 レイラインから紐解く古代霊山の真相

霊峰 剣山

剣山頂上の風景 馬の背
剣山頂上の風景 馬の背

「日本百名山」のひとつに選定されている剣山は、石鎚山とほぼ同等の標高1955mを誇る西日本第二峰、四国徳島県の山です。剣山の頂上周りには、祖谷川を源流とする御神水が湧き出ており、日本の名水百選に名を連ねています。剣山の頂上から尾根伝いを眺めると、ミヤマクマザサと呼ばれる緑の葉に包まれた「馬の背」とも呼ばれる広大な緑の草原が広がっています。

剣山の頂上は注連縄で祀られており、頂上近くの宝蔵石に隣接して剣山本宮宝蔵石神社、そして宝蔵石を拝する形で剣山本宮が建てられています。また、山の中腹には大剣神社があり、背後に聳え立つ50mほどの「御塔石(おとうせき)」と呼ばれる巨石を御神体としています。そして麓の見ノ越には劔神社が建立され、剣山へ登る山道の入り口となっています。

剣山とソロモンの秘宝

剣山 宝蔵石
剣山 宝蔵石
剣山は、同じ四国の石鎚山と同様に、古代から修験道の山として、多くの行者が登山に訪れてきました。その背景には、剣山に纏わる伝説が存在し、剣山周辺の集落には古代からミステリーが言い伝えられています。例えば町役場の案内書には、ソロモンの秘宝が隠されている可能性について記載されています。ソロモンの秘宝とは、聖櫃、すなわちアークとも呼ばれる契約の箱と、そこに秘蔵された中身のことです。旧約聖書によると、聖櫃の中にはモーセが携えていた十戒の石板が秘蔵され、また、聖櫃と共にアロンの杖とマナの壺も聖櫃のそばに置かれていました。それらが日本に持ち運ばれてきたのではないか、という噂が長年にわたり絶えないのです。

巨石と金の鶏

古代、剣山を目指して長く険しい山道を登った人たちは、まず、穴吹にある巨石を祀る石尾神社に参拝し、その近くにある杖立峠を越えて、剣山に向かったと伝えられています。その石尾神社は巨石をご神体としていることから、社殿らしい建物は何もありません。そして何十メートルにも連なる巨石の割目の奥深くには、昔から「金の鶏」が隠されていたという伝承が残されてきました。イスラエルの聖櫃の上には、ケルビムと呼ばれる羽を広げた形状の金の鳥が、向かい合う形で置かれていたことが知られています。剣山参りの前座となった石尾神社に纏わる金の鶏の伝承とは、果たしてイスラエルの聖櫃と何かしら関係があるのでしょうか。

剣山周辺のユダヤルーツ

いずれにしても、剣山周辺の地域は古代から、何かしらイスラエルとの関係があるようです。剣山の麓近くに建立された神明神社は、積み石風の祭祀遺跡として知られています。南向きに位置し、3つの入り口から入ると、5か所に祈り場が存在します。これら石の並べ方、配置の在り方は古代のユダヤ礼拝所に酷似していることから、神明神社そのものがユダヤルーツではないかと言われています。果たして剣山の歴史の背景には、古代イスラエルの民が存在したのでしょうか。

剣山と淡路島

南淡路から眺める剣山
南淡路から眺める剣山
古代の霊山として、これまで剣山の名前が挙げられる事例は少なく、古代イスラエルとの関係も取りざたされるようなことがありませんでした。ところがこの剣山こそ、日本列島が誇る霊山として、古代より極めて重大な位置づけにあることがわかってきました。注目すべき点は、剣山が淡路島から望むことができる最高峰ということです。淡路島は大きな島であり、島の随所から周囲の山々を見渡すことができます。北方には六甲山脈を眺め、南東方向には吉野や熊野の山々を望めます。また南西方向には四国徳島の山々が並んでいます。それらの山々の中で、頭ひとつ出ている最高峰が剣山です。天気の良い日に淡路島から遠くに四国の山々を望むと、一つの山の頂上だけが少しだけ飛び出しているのが見えます。

旧約聖書のイザヤ書によると、古代イスラエルの民は、東の海の島々の中でも、ひときわ聳え立つ最高峰を探し求めていたと考えられます。それ故、国生みの時代にて最初に淡路島に到達した時点で、剣山の存在が見出されたことでしょう。よって剣山の歴史は、大変古いものと考えられます。

剣山のレイライン

その証となるのが、剣山と他の聖地を結ぶ多くのレイラインの存在です。剣山のレイラインには、日本の古代聖地がずらりと名を連ねます。よって、剣山が古代の霊山であり、最重要視されていた指標のひとつであったことの証と考えられます。

まず、石鎚山と同様に、高千穂、熊野本宮大斎原と剣山とのつながりを見てみましょう。すると、高千穂と剣山を結ぶ延長線には古代聖地の基点として比類なき位置づけを誇る三輪山があり、高千穂峡 真名井の滝
高千穂峡 真名井の滝
熊野本宮大斎原と剣山を結ぶレイラインの西方には宗像大社が存在します。いずれも記紀において、国生みの時代から神代にかけて登場する聖地です。奈良盆地を囲む一角の小高い山が三輪山の聖地となった背景には、おそらく剣山と高千穂を結ぶ線上にあることが重要視されたのではないかと推測されます。国生みの時代、神代の事象は南西諸島から対馬、宗像を経由して記録されていると考えられることから、宗像にて神が祀られた後、石鎚山と剣山を指標として、それらのレイラインが通る熊野本宮大斎原の聖地が定められたと想定できます。

石鎚山と同じく、剣山も淤能碁呂島に比定される可能性がある小松島の日峰山と結び付き、そのレイライン上には富士山と香取神宮が並んでいます。日峰山は、剣山と富士山を結ぶ線上にあることから重要視されるようになり、後には、その一直線上に香取神宮が建立されたと考えられます。

また、スサノオと絡み、出雲大社のご神体ともいわれる八雲山と金刀比羅宮が、剣山と一直線を構成していることにも注目です。金刀比羅宮は剣山と八雲山の地の力を受け継ぐべく、綿密に計算された場所に建立され、しかもその場所は前述したとおり石鎚山と高千穂のレイラインとともに紐づけられていたのです。聖地をまたがるレイラインが交差する地点に建てられた金刀比羅宮だからこそ、多くの人に愛されてきたのです。

剣山の山頂にある注連縄
剣山の山頂にある注連縄
その後、崇神天皇の時代では元伊勢の御巡幸が始まり、再び剣山はひそかに注目される存在となり、元伊勢御巡幸のすべての巡幸地とレイライン上で結び付くことになります。それは剣山がソロモンの神宝と纏わる重要な秘蔵場所であったことを後世に伝えるためのメッセージであったかもしれません。いずれにしても、剣山は国生みの時代から重要視され、特に神宝の秘蔵が重要視された前1世紀以降、新たに注目を浴びる存在となり、そこが邪馬台国の舞台へと発展していくのです。

その発展の起因となる立地条件の重要性を、元伊勢に関するレイラインからも検証することができます。元伊勢の御巡幸地は、剣山を基点とするレイライン上にすべて存在します。それは御巡幸地の場所が剣山に紐づけられて厳選されたことを意味するだけでなく、剣山が元伊勢御巡幸の最終目的地であることを示唆していたようです。剣山こそ、古代の霊山の中でも、きわめて重要な位置づけを占めていたことがわかります。

剣山のレイライン
剣山のレイライン

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