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2023/10/25

日本八霊山 レイラインから紐解く古代霊山の真相

霊峰 大山

夏季に眺める大山の絶景
夏季に眺める大山の絶景

鳥取県最高峰の大山は標高1729mを誇ります。四国の石鎚山、剣山の頂上からは大山をくっきりと望むことができることから、古代より重要な指標となっていました。大山は大神岳、「おおかみのたけ」とも呼ばれ、奈良時代に記された「出雲国風土記」にその名が記されています。そしていつの日も地域一帯のシンボルとなる霊山、「大いなる神のおわす山」として、多くの人々から崇められてきました。

大山は「だいせん」と読みます。山の音読みは「さん」「せん」ですが、後者は中国の呉音に由来すると言われています。呉音の歴史は7-8世紀より広められた漢音よりも古く、また、その多くは仏教用語にも使われています。それ故、大山を「だいせん」と呼ぶようになった背景には、古代、人々がこの山に信仰的な思いを込めた要素が含まれているようです。

修験の山「大山」

大山は奈良時代、出雲の国造りに貢献した依道によって開山されたといわれています。「大山寺縁起」によると、大山は熊野山、金峰山と共に元は一つであり、それが三つに分かれ、いつしか山岳信仰の対象となりました。大山の麓には奈良時代に創建された大山寺があり、必然的に修験道の道場になりました。そして平安時代以降、最盛期には100あまりの寺院と3000人の僧兵を抱える勢力までになりました。また、室町時代には天台宗山岳仏教の道場としても知られるようになり、大山は「修験の山」としての位置付けを確立したのです。

大神山神社奥宮
大神山神社奥宮
その大山寺の境内から自然石を敷き詰めた石畳の参道を700mほど登ると、全国最大級の壮大な権現造りで有名な大神山神社奥宮があります。従来、その場所は大山に登る行者のための遥拝所として始まり、大山寺の本殿として、大山全体の山岳信仰の聖地となっていた歴史があります。その社殿が大神山神社奥宮となり、その御祭神として、神代にて国造りに貢献された大己貴神が祀られたのです。その奥宮に保管されている八角神輿は江戸時代後期に作られたものであり、台座の高さは3mを超え、全体の重量は1トンにもなります。

大山と船木、高千穂

大山のレイラインは大変シンプルな線引きにまとまっています。伊吹山と同様に大事なことは、大山が日本最高の富士山とほぼ同緯度で結びついていることです。その線上には伊吹山が存在するだけでなく、琵琶湖に浮かぶ小さな聖地、竹生島も並びます。大山は、地の力を富士山と伊吹山、双方と共有していたのです。また、他の古代霊山の多くが高千穂に紐付けられているように、大山も高千穂とレイラインで結び付いています。

古代の渡来者は、南西諸島を北上して海をわたり、九州から四国、淡路へと航海してきました。その海路の途中、九州の最南端で船を停泊させる拠点としたのが、今日の鹿児島県、日置市の船木神社です。西アジアから渡来してきた船木一族こそ、日本列島に皇族を先導した海洋豪族と想定され、1~2世紀では、元伊勢の御巡幸において伊勢への船旅を導いただけでなく、その後、紀伊半島や播磨、淡路、そして四国の若杉山にも拠点を設けています。その船木一族の古代拠点と大山を結んだ線上に、高千穂が存在します。それは、高千穂という山奥の場所が、大山と船木を結ぶレイラインから見出だされた聖地であった可能性を示唆しています。

日本海の海上から目の当たりにできるだけでなく、四国の剣山や石鎚山からも望むことができる大山は、最古の港のひとつである船木と、古代の聖地として名高い高千穂に繋がっていることからしても、日本八霊山のひとつとして名乗りをあげるにふさわしい名山と言えるでしょう。

大山のレイライン
大山のレイライン

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